批評の復習4

(短期集中連載)

承前

テレビドラマ『臨場』は、横山秀夫原作の警察ドラマで、主演、内野聖陽、共演、松下由樹渡辺大渡辺謙の息子で、すでに先週の回で配置換えになりレギュラーから消えたが)――検視官の目から事件を解決してゆくドラマです。


べつにドラマをみていなくてもいいのですが、このドラマで興味深いと思ったのは、死体ならびに死体周辺の物的証拠から、検視官が、被害者と思しき人物が、なぜ死ななければいけなかったのか、殺人なら、その動機と状況はどうであったのかを鋭い洞察力と緻密な観察で推理するのですが、そのことを「死者の声を根こそぎ拾う」とか「真実を根こそぎ拾う」といって、これがキー・フレーズになっています(原作にはなく、ドラマ化にあたってつくったフレーズだと思いますが)。


ああ、これだと思いました。つまり文学作品を死体というのは、物騒なことですが、過去の遺物だとすれば、この遺物は、実にいろいろなものを背負っているはずです。それを全部とまでいかなくとも、可能な限り拾うこと。文学作品の声を真実を根こそぎ拾うこと、これが文学研究なり文学批評のありかたではないかと思っています。


人間に譬えるというか、擬人化すれば、私たちに残された文学作品は、喜びや悲しみを抱いていました。笑いと憤りや怒りも背負っていたはずです。それらはどんものだったのか。なぜそうだったのか。それを根こそぎ拾いたい、あるいは根こそぎ拾うことこそ、文学研究だといえるのです。


さらにいえば、文学作品は、たんに中立的な立場に確保されているわけではなく、それは被害者かもしれないし、加害者かもしれないし、あるいは両方かもしれないのですが、それをつきとめることもまた、真実を根こそぎ拾うことにつながります。また、それが歴史のなかでどのように読まれ利用されてきたか、死後の生を調べることも重要なことです。


もちろん具体的な手続きとしては、たんに作者の伝記を調べて、作品の成立を調べれば、それで終わりということではありません。文学作品は、作者の声を響かせていると同時に、地域の、階級の、歴史の、文化の、伝統の、ジェンダーの、思想の、哲学の、政治の、さまざまな声もまた響かせているのです。ですから調べたり、推測したり、洞察力をはたらかせる分野なり領域は、とてつもなく広いし、知的活動の種類も限りなく多い。容易なことではないし、すぐに終るようなことではないにしても、それでも死者の声を根こそぎ拾うこと、もの言わぬ死者というかたちで残されている文学作品の声を、根こそぎ拾うこと。それをしない文学研究など、する価値はないのです。


たとえば、ここに美しい花瓶があったとします。その花瓶のサイズ、形態の特徴、様式、あるいは履歴(既製品ならどこの会社の製品なのか、工場はどこか、販売価格はいくらか、芸術的作品なら作者は誰か、作風なり様式はなにか、来歴)などを調べることができます。美的特徴、芸術面、あるいは工芸面などの、こうした調査・観察・分析は重要で、絶対欠かすことはできませんし、それを抜かしてはなにも語ることはできません。


しかし、それでこの花瓶の真実を根こそぎ拾うことにはならないのです。たとえば、この花瓶を、所収者は、購入したのか、結婚式の引き出物としてもらったのか、そういったありふれたことでも、この花瓶の特徴を丁寧かつ繊細に調査・観察・分析しているだけでは絶対にわからないのです。ましてや、その花瓶が所有者にどういう意味をもっていたのかについては形式分析ではわかるはずもないのです。その種のことは、花瓶に付随する(あるいはその花瓶の一部といってもいい)空間なり時間(人間関係や社会関係、歴史)を調査・観察・分析することでみえてくるものなのです。


死体の声を根こそぎ拾うとは、死体を解剖することだけではありません。解剖は、声を、真実を、根こそぎ拾うことの一部なのであって、そのすべてではありません。


新批評も、フォルマリズムも、受容理論も、あるいは自己言及性分析も、重要な一部、不可欠な一部ですが、それだけでは終らないし、終ってはいけないということになります。


また文学研究者や批評家は、ドラマ『臨場』の検視官と同じような作業と判断をすべきであって、そう考えると一句浮かびました。

*原書読む 内野聖陽 検視官

原書を読む人間、翻訳家であれ、文学研究者であれ、誰でもドラマ『臨場』で内野聖陽が演じている検視官のように、するどい洞察力と、「根こそぎ拾う」という執念のようなものをもたなければならないというへぼ一句です。


ちなみに「内野聖陽」は「うちのまさあき」と読みます。内野という姓は、なんでこう、読みにくい名前になるのだ〜い。「うちのせいよう」でも、偉そうでいいのかもしれません。どちらも7文字だし。ああ、でもこの句はだめですね。季語がない。


【付記:「半ズボンにて来し教師多弁なる」(高木良多)という句があるようで、半ズボン姿の先生というのは、俳句の世界では正統的なものかもしれません。】(完)