麻袋の性は?

『9(Nine)』を見てから、今日で、1週間だが、映画『9』で気になることをひとつ。

麻袋の皮膚をもつ9体の人形というか、生命体たちには、性あるいは性器がないことである。これは科学者の魂を転写したのが彼らだから、単性生殖によって生み出されたようなもので、性器はないのは当然のこととして、肉体的にも男女差はないように思われる。


とはつまり麻袋にはひとつの性しかないというよりも、性差はないと当然のことながら考えるべきであろう。ただしその無性の麻袋の身体に、ジェンダーはあるように思われる。彼らは、話をする。私が聞き覚えがあって、かろうじてわかったのはNo.1の声がクリストファー・プラマーであること、No.9の声が、イライジャ・ウッドであることぐらいで、あとはわからなかったが、No.2がマーティン・ランドーと知って、懐かしい思いがしたが、テレビでよく見ていても、吹き替え(納谷悟郎だったような)だったので声までわからない。No.5のジョン・C・ライリーは映画でよく見ているのだが、残念ながら声まで覚えていない。No.6のクリスピン・クローヴァーは『アリス・イン・ワンダーランド』にも出ているのだが、顔を出していないので、声だけではわからない。No.7のジェニファー・コノリーに至っては、いろいろな映画で見ていても、声を聴いてないことが自分でもよくわかった。まったく認識できず。


したがって9体の人形には、性別があるように思われるのだが、しかし、それは彼らの年齢差、体格差といった要素と同じく、彼らに後天的に付与された個性である。つまり彼らののっぺりとした身体には、性差という要素は副次的なものである。実際、彼らの身体は、骨格が、文房具をはじめとしたこまごまとした金属雑貨でできていて、それに麻袋その他の布切れがかぶせてあっって、布切れ同士を留めるのも、ジッパーであったりボタンであったり、縫合であったりとさまざまである。そしてそこに個性を示すさまざまな付属物がつく。そうした付属物のひとつがジェンダーであって、ここではジェンダーは本質でないことはもちろんのこと、構築されたものでもなく、ただ付録としてそこにある(デリダ的な代補)ものにすぎない。なくてもいいし、あっても偶発的なものなのである。


あるいはこういってもいい。ジェンダーは、通常なら基本であって、それが男か女かは、つねに決められる。ところがこの9人組においては、ジェンダーはNo.7にだけ付与される。No.7だけが女性なのである。ではあとの8人は男性かということ、声からしてそうなのだが、基本的には無性である。またNo.7にしても戦士であって、伝統的な女性像とは異なっている。


こう考えてみる。無性の存在がデフォルトであり、そこにそれぞれひとつずつ特性が加わることとする。ひとつには老人性が、もうひとつには狂人性が、さらにもうひとつには若者性が、さらにもうひとつに独裁的指導者性が、そしてそのうちひとつには女性性が、付与されたとする。ジェンダーは、あまたある個性のひとつに相対化されるのである。そして、ここでは女性性というジェンダーを身体の部品の一部であるかのように、つけたりはずしたりできる人形たちは、ある意味、ジェンダーと戯れることができる集団である。そして9体の人形たちの集団は、こういうことがいえるなら、ジェンダーと戯れることができるクィアな集団である、と。


さらにいえば、これは最初のショートフィルムの頃から意図されていたのかどうかわからないが、この長編アニメ版においては、両大戦間のファシズムの台頭の時期に考案された暗い未来像というコンテクストが不要されたわけだが、もうひとつのコンテクストも付与されていたことがわかる。すなわちクィア集団。そもそも性器のないこの人形たち、単性生殖の人形たちは、廃墟となった世界で、身を寄せ合いながら、それでもいつなんどき襲ってくるかわからない敵と戦い、命を落としたりする。ここにあるのはクィア集団による外的との戦いである。この世界には性器のある、性別化される人間たちはいない。性器のない脱ジェンダー化されたクィア集団しかいないのである。


こんなことを考えるのも、この映画が『オズの魔法使い』をモチーフにしているからだ。この映画のプログラムには映画評論家の黒田邦雄がコラムを書いていて、そのなかで、『オズの魔法使い』を引き合いに出しつつ、最後に、「人類のいない世界で、彼らは一体何を守ろうというのか、その答えを探るには、やはり『オズの魔法使い』をテキストにせねばなるまい〔このバカは、「テキスト」を、教科書とかモデルという意味につかっていて、文学理論や文化理論や文化記号論でいう「テキスト」「テクスト」という用語については知らないのだが、テキストが流行であるらしい(それにしてもいつの流行なのだ)ということくらいは知っているようだ。〕。つまり、守るべきはものは〈愛と知恵と勇気〉。人間が守り切れなかったこのスローガンを守ることが、生き残った人形たちに課せられた役目だろう」と。


映画評論家なんて、なるもんじゃない。つらい仕事だと思う。まさかこの黒田が『オズの魔法使い』や「虹の彼方」のインプリケーションを知らないはずはない。しかし残念ながらプログラムにそれを書くわけにはいかないから、こんな歯の浮くような、どうでもいいことしか書くことしかできない。ただ、それにしても、もう少し、におわせるような書き方はできそうなものだが。


映画『オズの魔法使い』あるいは、その挿入歌『虹の彼方に』は、いまや同性愛のシンボル的存在である。同性愛のレインボーカラーもこの『虹の彼方』から来ている。そうこの映画で、『オズの魔法使い』が引用され、虹の彼方が歌われるとしたら、一応、終末と絶望の世界における希望をカムフラージュの手段として、ゲイあるいはクィアアレゴリーが語られているとみることができるのだ。『9』はその意味で、クィア的世界観あるいはクィア的世界に触れることのできる映画なのである。