感無量


私がいまの大学で助手だった頃、指導教官(当時の名称)であった小津次郎先生が中心となった研究グループが文部省(当時の名称)の科学研究費で購入した本を配架してある研究室の一室を管理していたことがある。


管理といっても正確には、その部屋に重要書類が保管してある金庫のようなものがあって、時々、そこへ行って金庫から書類を出し入れしていたのだが、その部屋には、科研費で購入した本が並んでいて、その部屋に行くたびに、本の背中をみていた。主にエリザベス朝(広義の)演劇作品のコレクションだった。もちろん、いま、それは地下書庫に配置換えなったが、ちゃんと保管されている。


助手だった当事、未熟者の私は、こうした本を利用するほど、研究歴を積んでいなかったのだが、その部屋に入るたびに、いつかこうした本を利用してやろうという意気込みと、いつになったこうした本を利用できるのだろうかという諦めとがないまぜになった複雑な感情にとらわれていた。


ただ、いずれにしても、たとえ私が利用しなくても、誰かすぐれた研究者が利用するだろうとは思っていた。そして助手を辞めてべつの大学に移ったのだが、いま大学院で学んだ大学で教えるようになって10年以上になったのだが、今年からは、大学院の授業をレヴェルアップすることにした。前半(夏学期)には、英国初期近代演劇の高度な研究、そして後半(冬学期)には、分野、ジャンルを問わず批評理論とその実践という入門的演習をすることになった。つまり前半で少数の院生に高度な演習を、後半でできるだけ多くの院生に入門的な演習をというように二段構えになったため、たんに多くの院生にシェイクスピア作品の入門的演習をするということから解放されて、英国初期演劇の高度な授業ができるようになった。もちろん、そのため前半は授業出席者は、専門の院生にかぎられた。


夏学期の授業で読む作品を決めてゆくとき、一応ファクシミリ版が書庫にあることはわかったが、昔のファクシミリなので鮮明ではない。それにブラック・レターの印刷なので、超読みづらい。しかし、これしかないようなので、腰をすえて読み解くしかないと覚悟を決めていたのだが、優秀な院生のひとりが、活字に起こしたモダナイズド代版(といっても古いものだが)をみつけてきたので、こちらを使うことにした。


実は、この作品の前に扱った作品も、ネット上にあったファクシミリ版を無料ダウンロードしたもので読むことになったのだが、それだけでは読みにくいし、版にも問題があったので、20世紀の初め頃にアメリカ人の学者(といってもアマチュアに近い)が作ったモダナイズド・エディションを、これもネットからダウンロードして、補助とした。実際には補助がメインで、あとからファクシミリ版で確認するということをしたのだが。


しかし、その作品を扱った授業では、ある院生が、とんでもない読み間違いをして、プロットすら理解できなかったことがわかり、この院生は、こんなにできなかったのかと、唖然としたのだが、よく聞いてみる、ネット上のファクシミリ版だけで読んで、補助のテクストを読まなかったという。実際、不完全なファクシミリ版でしか読まなかったら、誤読から読み間違えなどが起こって当然なので、ちょっと安心したが、同じ過ちを繰り返さないために、今回も補助のモダナイズド・エディションを探すことにしたのだった。


そして院生がみつけてきたモダナイズド版のコピーをみて、私は、思わず、驚きの声をあげた。これは私が30年くらい前に、助手の頃、毎日のようにみていた科研費のコレクションの一部をなしている本のコピーだったのだ。


授業の最初に、私は昔話をした。この本を含む科研費で購入したコレクションは、いまとはべつのところに置いてあって、それを助手の私は、管理し、毎日眺めていた。このコレクションの本を一冊でもいいから、読む日がくるのだろうか。研究の一部として、あるいは授業のなかで、と、私は当事、毎日、思っていた。私がこちらで教えるようになって、そのコレクションに入っている作品を授業で扱ったことはなかったし、またそのコレクションでしか読めない作品を扱って修士論文を書いた院生もいない。それを、今回、授業で使うことができるようになって、うれしいというか、感無量である、と。文字通り、不肖の弟子だった私も、今回の件については、小津次郎先生に、すこし恩返しできたような気がする、と。


ちなみに、その院生は、その本を地下書庫でみつけたのだが、なんとページが切ってない袋とじ状態なので、書庫の係員に相談し、係員立会いのもとに、ページを切ったのだという。そうか、最近の学生や院生は知らないのだろうが、昔は、ページを切っていない本はふつうにあった(とりわけ洋書が多かった)。それをペーパーナイフで切りながら、読み進むというのが読書の醍醐味だったのだが、今の学生がは、ページが切られていない本なんて、事故みたいなもので、ただただ驚いたということのようだ。昔だったら、そんなものは勝手に借り出して、自分で鋏でページを切っていたところだ……。


と、ここで気づいた。ページが切られてなかった。ということは、この作品、いままで、30年以上も誰も読まなかったということではないか。私の学問上の先輩も後輩も、恥じを知れ――この作品を読まなかったことに。もちろん、一番恥を知るのは、私である。私も読んでいなかったのだから*1

*1:どういう作品かは、あえて伏せるが、最近では、英米の、いろいろな研究書で扱われている注目作品である。