最後の授業

といっても、前期最後の授業ということ。実際には大学によっては、最後の授業あるいは期末試験が8月に入るところも多いので、まあ早く終わるほうかもしれない(期末試験は9月の下旬にある)。大学生はらくちんだ、遊んでいるという勘違いしている中高生がまだ多いのには唖然とする。ゆとり教育は、大学では、とっくの昔に終わっている。大学に夏休みがくるのは、小中高生よりも遅い。


本日の授業は、実は補講。6月に夏風邪でダウン。そのため6月に休講が続いたので、補講をしなくてはいけなくなった。通常の授業時間帯では、補講期間の最終日にあたるので、それでは学生もかわいそうと思い、補講期間がはじまってからすぐの午前中に授業をすることにした。そのように手配をして、掲示も出したうえで、教室で、そのことを話すと、その時間帯には授業がありますという。え、補講期間だから、通常の授業はないはず。それはなんの授業? なんの補講? あ、教務係が間違えてバッティング! そうではなく、通常の授業だという。教務のミスではなかった。補講期間に通常の授業をしてもらっては困る。ただし、早めに授業を終わってしまうよりも、通常の授業期間を超えてまで授業をしようというのだから、非常勤の先生で、熱心な先生なので、抗議するのはやめた。その日の午後に私の授業をずらした。


最後の授業というか補講では、シェイクスピアの『オセロー』を読んでいる。オセローが自害する最後の場面である。補講なので、学校の授業、行事、個人的なアルバイトなどでバッティングしている学生が多くて、しかも、すべての授業に出席していないと単位はないということではないので、欠席者が目立つ(1回か2回の欠席で減点されることはない)。まあしかたがないのだが、しかし、それよりも、学生の発表なりコメントには有意義なものがあった。


こちらから話したのは

1)最後の場面のカウントダウンはいつから始まっているかということを作品をふりかえって確認すること。これは第4幕第1場から始まっていて、キャシオがビアンカのところで夕食を食べるということが、ここで出てくる。これはカウントダウンのはじまり。意外に早い。

2)オセロは何本剣をもっているか。2本まではいいのだが、自害するときの3本の剣はどうすのか。オリヴィエ版オセローの演出、サム・メンディス(今は映画監督だが、舞台演出も手がけた。ケイト・ウィンスレットとは離婚したか)の演出。あるいはオリヴァー・パーカー版の映画での仕掛けなどを話した。

3)自分を景気づけているオセローというエリオットの説。

4)割礼の話*1

5)そしてきわめつけ嫉妬の話。

『オセロー』という芝居は、妻の不倫に苦しむ夫の話ではないよ。もちろん妻が不倫したら、たいていの夫は苦しむだろうが、この芝居では、妻が不倫をしたという噂あるいは間接証拠にふりまわされ悩まされる夫の話で、妻は浮気していない。この妻が浮気しているという情報にふりまわされている夫の話であって、一歩間違えば、これは愚か者のバカ話になってしまうが、みかたによれば、情報による仮想現実に汚染された現実という、きわめて現代的なテーマにもなっている点に注意してほしい。仮想現実が、ほんとうの現実にとってかわり、虚の世界に苦しむ人間の話なのだ。たとえばデズデモーナとキャシオの肉体関係(実際にはなかったであろう)は、ハンカチによって代用されている。ハンカチという記号が、実際の肉体的交渉の代表・代理となっていること、こうした点を強調した(なおポストコロニアル系列の話は、ずっと授業で話していることは、付け加えておきたい。そうでないと、これはあまりに非社会的・非政治的・非歴史的議論に執しているクズ授業かと誤解されかねないので)。


学生からのコメントで興味深いのは、たとえば1)エミリアが死ぬタイミングのよさ:エミリアの存在感の大きさは、最後の場面においてオセローとイアーゴーとに絞られるべき焦点をぼかすかもしれなかったので、上演的にも、適切な処理ではなかったかということ。


そして2)オセローの2本目の剣について、丸腰だと思わせて2本目の剣を出し、それで活路を開いて逃げ出すかと思うと、そうせず、ここが「旅の終わり」だとかなんとかいって、逃げようとしない。これはエミリアが死んで、観客がいなくなったので、外から人を呼んで、その人物(グラチアーノだが)を観客として、ひとしきり台詞をいうためのものではなかったかということ。


3)最後の台詞を述べ、自害するとき、その直後、「ああ、血でよごしちゃって」O bloody period!、「せっかくの台詞がだいなしだ」All that is spoken is marr’d.というような、メタドラマ的コメントが入ること。繰り返すが、オセロー最後のせっかくの名台詞が、語り手の自害ということで、だいなにしなっているという、言わなくてもいい台詞なのだが、それが入っている。


つまりこの芝居は、オセローが、浮気してもいない妻が浮気しているという情報に躍らされてしまう、また老人と結婚したら必ず浮気をするというステレオタイプの劇場へと取り込まれてしまう芝居であり、同時に、本人もまた、浮気する妻という、虚の幻影に対応して、嫉妬して苦しむ高潔な将軍という、ある意味これもステレオタイプ劇場での役割を引き受けることになり、すべてが、どこか現実そのものの強度をそがれて、役割演技へとりこまれ、浮遊感をたえず漂わせることになる。最後のオセロー自害後の台詞も、オセローの死が、予想されたものと違った、もしくは流血で終わらずにしめくくるべきだったという演劇評論になっているのであるのも、むべなるかなというところか。


授業の最後では、オリヴィエ版の『オセロー』の最後のところ、ああ、台無しじゃんAll that is spoken is marr’dといいたくなる、例のデズデモーナの顔が汚れる結末を映像で確認した。この有名な結末は、デズデモーナの死体を抱きかかえて(そうしなければならないという指示も必然性もないのだが)、台詞をいうオセローは、時折、彼女の顔に頬ずりする。するとオリヴィエ/オセローの顔の黒い化粧で、マギー・スミス/デズデモーナの頬が黒く汚れてしまうのである。


くりかえすが抱きかかえて台詞をいわなければならないということはないし(ちなみに、この授業でみせた蜷川幸雄演出『オセロー』のDVDでは、吉田鋼太郎のオセローは、ベッドで死んでいるデズデモーナ/蒼井優を抱きかかえたりはしていない)。またこれは、アクシデントなので――ああ、デズデモーナの顔が黒くなっちゃってAll that is spoken is marr’d――、撮りなおすしかないのだが、それをしていないのは、デズデモーナの黒く汚れた頬に意味をもたせたということだろう。オセローと結婚して黒くなった女という。


ちなみにこのオリヴィエ版の映画では、すべて台無しという台詞はカットされている。ただそれにしても、オリヴィエのオセロー、自分の頚動脈を切りながら、ニタッと動物じみた下卑た笑いをして死んでゆく。やっぱりこれは人種差別的映画だ。

*1:ちなみに前にみた映画『彩恋』(関めぐみ!が出演していた)のなかで中学生の男子が、皮をむく話がでてくるのだが、あれは大げさなフィクション。またもしほんとうに皮をむいた直後なら、亀頭が敏感になっているのだが、バスタオルがすこしこすれただけでも痛い。そういう敏感亀頭の話はなかったこともまたフィクション性を強化している。とはいえ、皮をむく話は、ほかにも有名な古典的エピソードが映画にあったような記憶があるが、忘れた。