書評


最近といっても5月だが、出版した翻訳(共訳)が『読売新聞』書評欄(8月1日付け)で書評された。最近の新聞の書評欄あるいは書評紙などもそうだが、推薦されるべき本しか書評しないので、以前のように手厳しい書評はなくなった。今の世の中、電子書籍の時代でも、出版される本はやまのようにあるので、「この本はひどい本だから買うな/読むな」という情報よりも(誰もがかたっぱしから本を買っているわけではないので)、宣伝でなく第三者の客観点立場から、「この本はすばらしい、買っても/読んでも、損はない」という情報をもらうほうが、はるかにありがたいし意義がある。そのため、たとえば学会誌なので、関連分野の文献を全部とりあげて、評価を下すというような書評でない限り、手厳しい書評はなくなった。ましてや大新聞の書評欄である。推薦されるだろうことはわかっていても、こいつのあとがきはくだらないとか、誤訳があるとコメントされるかもしれないと、内心びくびくしていたが、幸い、予想どおり、書評は、りっぱな推薦文であった。


これまで、私が翻訳したもののなかで、いくつか書評にとりあげてもらったものがあるが、そのなかですばらしい書評と思ったのは、今回の書評を含めて2点ある。


ひとつはテリー・イーグルトンの『シェイクスピア』の書評で、書評掲載紙については忘れてしまったが、書評者は忘れもしない丹治愛氏であった。べつに丹治氏がいま日本英文学会の会長だからということでお世辞を言うわけではないが、丹治氏によるイーグルトン『シェイクスピア』の書評は、内容を実に的確に紹介して、同書のどの書評よりも優れていた。この人は、頭がいい人だと、ほんとうに感心した記憶がある。


いや、東大の先生だからとまでは言わなくとも、大学の先生だから、内容を的確に紹介する書評を書くのは当たり前だと思われるかもしれないが、そうではない。批評理論の本というか編著もある丹治氏のことだから、イーグルトンには関心があったかもしれないが、しかし丹治氏の専門は英国小説でもあって、シェイクスピアにはとくに関心はなかったはずである。イーグルトンのほかの本ならいざしらず、この本は、さほど興味をひく本ではなく、さらには頼まれ仕事だとは思うのだが、決して嬉しい頼まれ仕事ではなかったと思う。それが、私が読んだどの書評よりも、訳者の私よりも、内容を正確に把握しているのではないかと思われる丁寧な書評で、ほんとうに驚き感銘を受けた。


そしていまひとつは、『読売新聞』8月1日付け書評欄における野家啓一*1の書評。新聞の書評は、枚数が少ないというか、字数が少ない。その窮屈な字数制限のなかで、おそらく訳者の私でもすぐには思い浮かばない実に的確な引用を提示しながら、コメントする。残念ながら、このブログでわかるように、冗長な文章しか書けない私ににとっては、絶対にまねのできない、見事な文章で、あらためて野家氏の、あるいは新聞の書評者の高い能力を思い知った。

*1:すでに訂正したが、最初、野家氏の名前を間違って記載していた。せっかっくほめていただき、私自身、感銘を受けた書評者の名前を表記ミスしたこと、深くお詫びする。