リアルの復讐

高齢者不在問題は、最近にない、快挙であって、快哉を叫びたい。


まず国際的に大きな恥をさらすことになった。日本は高齢者天国、あるいは長寿国であるということが統計的にわかっているが、その高齢者が、数字のうえでしか、住民票あるいはコンピュータのなかにしかいない架空の存在でしなかなかったのだから、長寿国の名称も返上するしかなくなるだろう。実際に、日本は長寿国ではないかもしれない。


たとえば、地域の最高齢者が、昨年まで生きていたが、今回調べてみたら、知らないうちに亡くなっていたとか、遺族が死亡届を出し忘れていたというような、単純なことではなく、30年前に死んでいるのに、帳簿のうえでは生き続けて、しまいには最高齢者になっていたというのだから、あほらしくて物もいえない。もし今回の事件がなかったら、いったい、いつになったら、所在確認を本気でするつもりだったのか。あるいは年金を騙し取っていた遺族は、いったい、いつまで隠しおおせると思っていたのか。200歳くらいになって、さすがにギネス更新どころか、これはありえないと疑われるまで、ほうっておいたのだろうか。


とにかく数字の上でしは、あるいは記号の上では、りっぱな長寿国だった日本も、現実には長寿国ではない可能性がつきつけられた。まさに象徴界(数字と記号の記録)が、現実界(高齢者不在)によって、かく乱され、虚構性が一気に暴かれたという、これはすばらしい事件、まさに真理の開示としてのアラン・バディウ的〈出来事〉に他ならない。日本人の平均寿命を引き上げていたのは、こうした架空の高齢者であった可能性が高いので、ほんとうの平均寿命は、下がるにちがいない。


リアルの開示は、言葉を奪う。通常の言明の空虚さを際立たせる。この点でもリアルの復讐である。

1)たとえば、親がいなくなっても、ほったらかしにしているというのは、大家族制度がゆるぎなく存在し、隣近所の付き合いがしっかりしていた昔では考えられないというコメントがなされる。たしかにそうだろう。しかし、今回の事件を引き起こしたのは最近のちゃらちゃらした若者とか、個人主義が浸透して崩壊寸前の中年夫婦の家族ではなくて、充分に古い昔の人たちのことである。いまは昔と違うだろうが、今回の事件は、親も子も、昔の人たちである。個人主義が浸透する以前の、お親孝行を叩き込まれた昔の人たちが、子を捨て、親を捨て、死亡届のタイミングも考慮することなく、あさましく年金をもらいつづけていたのである。親孝行世代がである。


2)個人主義が、このような事件を生んだという。これも同じことだが、個人主義とは無縁だ立った古い昔の人たちが、今回の当事者たちである。かりに両親と子供一人の核家族の場合、両親が子供を過保護に育てすぎて子供が堕落し、その結果、親子の縁が希薄になるということはあるだろう。その危険性はあるが、家族関係がうまくいけば、核家族の親子関係は強い絆を生む。いっぽうで大家族の場合、親は子供を過保護にする以前に、親の親の面倒をみ、またたくさんの子供たちの面倒をみなければいけないので、親子の関係は、最初から希薄になる。もちろんそれによって、大家族の子供たちのほうが独立と協調の精神を家庭で学ぶことで社会性のある人間に育つことも多いが、同時に、子供が多ければきょうだい喧嘩が耐えないし、大人になれば親兄弟姉妹絶交ということも珍しくない。遺産相続争いは大家族ならではである(核家族の子供に、遺産相続争いは起こりようもない)。親がいなくなっても、失踪届けも出さず、30年以上、親と音信不通でも、なんとも思わないというのは、大家族制度の遺産である。それが今回の事件で明確にあらわれたとみるべきだろう。


もちろん個人主義批判というのは、今回の事件をきっかけにして噴出した政治的な主張であろう。ただ、あいにく、今回の事件は、あさましいだけで、個人主義とは関係がない。それを個人主義の問題へと連絡せんとする勢力は、国民総動員法をいまも夢見ている狂人たちである。そうした狂人たちが、国民が、みずからの生活を犠牲にしてでも国家のために奉仕し、国民を国家の犯罪の共犯者にするという裁判員制度をつくりあげたのである。裁判員制度が、新たな徴兵制度であることはつとに指摘されてきたとおりである。


また秋葉原無差別殺傷事件の公判が一週間前に開かれていたときには、犯罪を社会の責任にするのは、まちがっている、個人の責任の問題であると、都合が悪くなると、個人主義を持ち出し、その助けを借りて、社会責任論を回避する勢力も、その舌の根も乾かぬうちに、個人主義攻撃にまわり、社会が悪いのだといいはじめるのだから、私たちは警戒を怠ってはならない。


3)国民葬背番号による一元化がすすめば、今回のように、行方不明者がでることはないだろうというバカがいる。どんなに数値化し、それを統合して、一元管理するとしても、基本情報を入力するのは人間である。その人間がまちがった情報を入力し、それを訂正、あるいは更新、最新化しなければ、どんどん現実と遊離した、架空の現実ができてしまう。今回の高齢者不在事件がそれである。最初から110歳を越えるような高齢者などいなかった。ただ70歳くらいの高齢者が、死亡届を出されなかったり、行方不明になっても届けが出されなかったために、自動的に110歳になり、下手をすれば200歳になって奇跡の高齢者になっていたかもしれないのだが、実際は70歳で志望した、平均的な高齢者だったのである。


したがって問題はコンピュータ化(象徴化)して解決するのではなく、コンピュータ化が問題をつくりあげていたのである。実地に調査して、そのつど生存者を確認していれば、今回のような恥ずかしい事件は起こらなかった。年金横領というような犯罪も未然にふせげたのである。


またさらに年金番号など、あやゆる番号を一元化すれば、検索、調査しやすくなるということを言うバカがいる。アメリカのソーシャル・セキュリティ・ナンバーのようなものを考えているのだが、たしかに調査はしやくすくなるが、国民背番号制の一元化は、逆に一元支配の危険性を生む。最近のSF映画やアニメが警告しているように、コンピュータによる統合化は、独占的一元支配と独裁体制への道を開くものだった。たとえばこれは逆の立場だが、私が、どのコンピュータなりデータにアクセスする際にも、同じパスワードを使いつづけていたら、そのパスワードをもし盗まれたら、私の銀行口座から貯金を全部奪われるだけでなく、下手をすれば、私の存在すらも、データ上から抹消されるかもしれない。複数のパスワードの使用、あるいはパスワードの定期的な変更というのが、防衛のために鉄則であることは、子供でもわかることだ。そしてソーシャル・セキュリティ・ナンバーもまた、プライヴァシー問題以上に情報漏えいが問題視されているのである結局ここでも、国民総動員法の亜流として国民の一元管理の主張がなされるわけである。この事件をきっかけに。だが、この事件は、そうした勢力の恣意的な理由付けと解決法にはなじまないことを、私たちは今後とも指摘しつづける必要がある。


4)孤独死問題。これも深刻な問題だが、今回の事件は、私のような独身者が、心臓麻痺やクモ膜下出血で倒れて、気づかれぬまま、死後何日もたって発見されたというようなことではない。行き倒れになったホームレスという事件でもない。そうした事件は、重要であり、決して軽んずべき問題ではないのだが、今回の問題は、100歳を超えたような高齢者の問題である。ホームレスの孤独死ではない。人間、100歳を超えたら、それこそ奇跡的に元気な人でないかぎり、家族に世話してもらうか、施設に入っているかのいずれかで、ホーム(家庭、老人ホーム)から離れたホームレスということは絶対にありえない。高齢者、それも100歳を越えるような高齢者の孤独死というのはありえないのだ。なにをメディアも、政治家もなにをバカなことを考えているのかとあきれる。今回の事件と孤独死は関係ない(私に孤独死の可能性があるのは、私が高齢者であるのではなく、独身で生きていけるほど、まだ若く、体力が残っているからである)。ただ、孤独死の問題を考え、対策を練ることは重要だとしても。


5)今回の件は、ほんとうは、高齢者(100歳を超えるような)の問題ではなく、60歳(あるいはそれ以前に)亡くなったのに、記録上、コンピュータ上、100歳を超えてまで生き延びた人の問題だから、ヴァーチャル高齢者問題であって、真の(現実の)高齢者問題ではないことは、留意すべきだろう。そして、わからないこととしては、親子問題である。子供が親を殺した可能性もあるのだが、いつ親子が別れるのか、それも別れてもも子供がなぜ、平気で放置しておくのか、別れるきっかけはなにか、放置するきっかけは何かといういの謎である。謎であるがゆえに、リアルの復讐なのだが。


しかしわかっているともいえる。親子は仲が悪い。もちろん仲むつまじい親子も多いが、仲むつまじい親子の数と同じ数の仲の悪い親子も多いだろう。親子兄弟姉妹の絆など、簡単に断ち切れてしまう。親子ほど、仲の悪いものはないと認識すべきであって、これが今回のリアルの復讐の教訓であろう。


私の両親は、二人とも死んでいて、私は完全に孤児状態なのだが、もし母親がいなくなれば、私は大騒ぎして探すだろうし、当然、警察にも捜索願を出し、とにかく見つかるまで、どんな手段を使っても、努力を惜しまないだろう。実際のところ、母親が死んだときには、母親を、あの世まで探しに行こうと、本気で考えたくらいだから。


しかし父親だったら、どうだろう。たぶんいなくなっても探しに行かないと思う。捜索願も出さない。あんな奴がいなくなって、せいせいしたと思うだろう。相続する遺産など皆無だし、生きていてもいなくても、私の生活ならびに精神生活上、なんら影響ないのだから。うっとうしい奴がいなくなって、晴れやかな気分になるだろう……。とはいえ、自分の父親がいなくなったというとき、捜索願も出さずに、ほうっておいたことがわかったら、やはり、私のいまある社会的地位には、不名誉きわまりなくダメージも大きいし、それに父親が年金受給者なら、不在なのに私が受け取っていたら不正受給で犯罪者になりかねないので、やむなく捜索願は出すだろう(たとえ内心、みつからなければいいと思っていたとしても)。そんなことすら考えなかった、今回の老人たち、みんな70歳を越えていると思うのだが、やはりこの人たちの生き様、文化、教育、すべてが異様であり、謎である。