書評2


先週、読売新聞の書評欄(8月1日)で取り上げられた私の翻訳(共訳)『宗教とは何か』>イーグルトン著)が、朝日新聞の書評欄(8月8日)でも取り上げられた。


私は、自分の知名度はどのくらいなのか知らないが、知人は驚くほど少なく、友人にいたっては皆無なので、たとえば私のことを個人的に知っている、一度か二度会ったことがある、目にしたことがあるから、翻訳している本を、宣伝してやろうとか、書評に取り上げてやろうと考える人は、おそらくいない。私よりも数十倍も顔の広い、同僚たちの誰かが、ひそかに宣伝してくれているという可能性も否定できないのだが、いまのところ、私にはそういう情報は入っていない。


だから、新聞の書評欄の対象となる本が、どのようにして決まるのかは知らないが、選定に、私とのパーソナルな関係が要素として入り込むことはまったくなく、純粋に、本の内容とか重要度とか評判などが判断材料になっているはずである。だから、私が翻訳した本の場合、私の知り合いが書評にとりあげて褒めるということは絶対にない。あくまでも公明正大なプロセスしかそこにはない。


今回の本は、アマゾンなどでも、ありがたいことに高い評価を得ていて(褒めている人たちに、私の知り合いはいない)、評判の本となっている。新聞の書評欄でとりあげられてもおかしくないものとなっている。


今回、朝日新聞では、柄谷行人氏が書評を書いていて、とてもありがたいというか、光栄のきわみというべきものである。柄谷氏とは、もちろん一面識もない。


一読して、その書評は、カントの哲学を思わせるものであった。まあ、つまり、その、あたりまえのことを書いているようにみえて、実は、そこにふかいものがこめられている、そんな感じなのである。もちろんカント哲学には逆のこともいえて、深いことが述べられているようにみえて、実は、あたりまえのことにすぎない、というような憎まれ口はやめておこう(書いちゃっているが)。


読売新聞の野家氏の書評のように、この本の面白さ、醍醐味、刺激性などが、伝わっている書評ではない。むしろ、一歩引いて、抽象度をたかめて、そこに、そうナスカの地上絵みたいに、ただ地表を歩いているだけではみえないのだが、空を飛ぶと図柄が明瞭にみえてくる、そんな感じの図柄が、パタンが、布置がみえている、そこを狙う書評というか批評態度というべきだろう。問題なのは、ナスカの地上絵ならいいが、そうでなければ、予想通りの何の変哲もない風景がみえてくるにすぎない。ということだが。


本の面白さをまったく伝えていない書評なのに、本の注文が増えたらしいというのは、柄谷氏のカリスマ的オーラのせいというほかなはいだろう。