悪魔の発明


最近、本人の臓器提供意志がなくても、家族の意志で臓器提供ができるよう法律が改正され、その最初の臓器摘出が、おこなわれて話題になっている。


ちなみに臓器提供システムを、私は「悪魔の発明」と呼んでいる*1。臓器提供システムを考案し、臓器移植システムに加担する関係者は、誰一人、例外なく悪魔である。私は医学関係者全員を悪魔と呼んでいるわけではない。臓器移植に反対する人たちのなかには、医師たちもいることを忘れてはいない。


こういう臓器移植がニュースになると、メディアは、臓器提供者の家族たちに臓器を提供された側についての情報を知らせたらどうかという提案をする。情報の開示を求める臓器提供者の家族のインタヴューをとったり、コメンテイターが、それに賛同したりする。


日本臓器移植ネットワークの考えでは、臓器提供の関係者が臓器提供を受けた者と接触をすることによって、たとえば提供者側が、なんらかの金品で謝礼を要求したりすることがあるかもしれないし、また、そのようなことがなくとも、直接的接触があれば、臓器提供を受けた者が威圧的影響を感じかねないからということで、臓器提供者と、その受給者との関係は秘匿され、まさにシステムの管理者しか知りえない秘密事項となる。


しかし、それだけだろうか。これは臓器移植が成功した場合に考えられる、犯罪あるいは犯罪的現象しか考慮していないようだが、はたしてそれでいいのか。臓器移植が失敗した場合のことは考えられていないのである。


自分の息子が脳死判定され、その息子の心臓が、心臓病に苦しむ人間に移植されても、結局、一年足らずで臓器受給者も苦しみながら死んでいったとしたら、提供者側は、あまり気持ちのよいものではない。いやそれどころか臓器移植システムに対する疑問すら抱くことになるだろう。ひいては、それが社会全般に広がり、臓器移植では、そんなに病気はなおらない、無駄であるという認識が生まれたら、どうなるのか。


そうした認識が生まれないほう。臓移植関係者は必死なのである。


臓器移植に対しては、情報をもっとオープンに、つまり成功例だけでなく失敗例も開示してほしい。つまり国民は、成功と失敗の率もわからぬまま、まるで新興宗教のように、これは霊験あらたかな治療法だと思い込まされているにすぎないのだ。これが科学者がやることだろうかと、声を大にして言いたい。いや、まともな科学者ならそんなことはしない。臓器移植がもうかるから、そうして情報操作をイデオロギー作りを必死でするのだ。政治屋と商人たちが。


臓器移植をして元気になった人たちの運動会というものをテレビのニュースで紹介したことがある。これはけっこうなことである。元気になったのなら、それに越したことはない。問題は、この運動会に出てこれない人たちのことだ。臓器移植をしても、それがむなしく、死んでしまった人たちについては、まさに闇から闇へと葬られるだけある。推定でもそうした人たちの数はけっこう多い。臓器移植の明るいニュースだけが報じられる。第二次世界大戦中の日本の大本営発表と同じである。共産主義政権下の情報操作と同じものを、臓器移植ネットワークの悪魔どもはやっているのである。神よ、彼らを罰したまえ。


なお臓器移植システムが一般化すると、どういうことになるのかについての、危険性については、何度でも書いておく。


臓器は、生きがいいほうがいいに決まっているから、最終的には生きた人間から臓器を摘出することになるだろう。臓器移植システムは、このままだと家族の同意があれば、生きた人間から臓器を摘出できるところまでいきかねない。


モンティ・パイソンの映画『人生の意味』というを見たことがある人なら、あのなかに臓器移植に関するコントがあることを覚えているだろう。ある日、白衣の係員が数人やってきて、家族の見ている前で、おとうさんの体から臓器を摘出する。おとさんはまだ生きているので、壮絶な絶叫が響き渡り、血しぶきが飛び散る――スプラッター・ムーヴィーである。同様の場面は、人工臓器だが、最近の映画『レポゼッション・マン』にも見ることができる。


たとえば交通事故で病院に搬送されても、脳死判定されて臓器移植にまわされてしまうと、助かる患者も助からない。患者を助けるよりは、臓器移植のために体を切り刻んだほうが、儲かるのである。悪魔たちの所業である。


輸血をしたことがあるだろうか。出血多量で死に掛かっている人ではないかかぎり、病人が輸血すると、ものすごく気分が悪くなる。健康な人ならなおさらである。輸血というのは、人間の体に悪い。体から抵抗力を奪う*2。理想的なのは、人工血液だろうが、もっといいのは自分の血である。日ごろから、自分の血を抜き取って保存しておく。輸血が必要になったら、自分の血を使えばいいのである。


なぜ、このシステムが普及しないのか、あるいは普及に熱心ではないのかというと、輸血のほうが臓器移植に都合がよいのである。


輸血(他人の血)は、人間の体から抵抗力を奪う。つまり輸血すると拒否反応が起こりにくくなり、臓器移植には都合がよいのである。そんなとき、輸血といっても、当人の血を使うシステムが一般化してしまうと、自分の血では、当人の拒否反応が弱まらない。だからそんなものは、臓器移植システムにとっては、無益なものなのである。臓器移植システムがこのままつづくかぎり、臓器移植以外の事例で、自分の血を輸血するというシステムが発展することはないだろう。彼ら臓器移植悪魔たちの操作によって。

*1:臓器移植システムに深く憤っている私は、今回の記事のタイトルを「オール・アバウト・マイ・マザー」にしようと考えたが、映画と間接的に関係付けようとする意志は、怒りのまえに撤退することになり、もっと直接的なタイトルにした。

*2:ここから考えても、アメリカ人高校生の全員が信じている吸血鬼というのはうそだとわかる。他人の血を吸って、それを自分の血管に入れたら、一日中、ひょっとして何日も気分が悪くなる。他人の血は、点滴とはちがうのだ。ただし、最初から人間ではない場合、これはよくわからないとしても。