Yui’s Body


新垣結衣の映画の上映にあわせてか、関東圏では、午後の時間帯に『パパとムスメの七日間』というドラマを再放送している。16日が第1回だった。最初に放送されたとき、とくに注意してはみてなかったのだが、また今回も、ぼんやりみているだけだったが、要するに中年の父親と高校生の娘の心が入れ替わったという設定で、そこから生ずる、おもしろおかしい展開を楽しむという連続ドラマである。


父親役の舘ひろしは、見た目は中年のおっさんだが、事故のせいで、女高生の娘の新垣結衣の意識が乗り移ってしまったのであり、見かけは中年親父、中身は女子高生である。


いっぽう女子高生の新垣結衣には、中年の父親である舘ひろしの意識がのりうつってしまい、見かけは女子高生、中身は中年おやじとなる。


しかしドラマ全体は、なんとなく面白くない。笑いがないということではないが、その笑いが、なんとういうか分析的な笑いであって、直感的・感覚的な笑いではない。女子高生の入った舘ひろしは、オカマをうまく演じきれない中年親父にしかみえないし、中身が親父の新垣結衣は、ただの女子高生にしかみえない。いや、ふたりは熱演といってもいいのだが、しかし、どっという笑いがない。これは女子高生だけれども、頭のなかには父親が入っているわけだから、いま、こうしたしぐさをしたのかとわかる。しぐさの違和感とかおかしさが瞬時に伝わることなく、分析的に一拍置いたうえでおかしさが伝わってくる。これはおかしいところなのだ、と。そしてそう分析的にみていると、おかしさは消えてしまう。


とはいえ、なかに父親が入っている女子高生の姿をみて、なにか思い当たるふしがあった。最初に、この連続ドラマをちょっとみたときには、思いも及ばなかったことなのだが。この新垣結衣のしぐさ、男がなかにいるという設定の新垣は、誰かを思い起こさせる。


そう、私の姪である。彼女は、あんまりかわいくない。容姿ではなく、話し方とか仕草とか振る舞いが。まあ、年頃だから生意気になっているといわれればそれまでだが、ふつうの生意気とは違う。毎日会っているわけではなく、時々あっているにすぎないから、なんともいえないのだが、この夏休みに会った印象からすると、舘ひろしが入っている新垣結衣のようなかんじなのだ。そう、彼女は、男の子としてふるまっている。小学生の頃は「ぼく」と言っていたことはまちがいなのだが、いまでも「ぼく」と言っているのだろうか。


いや、男の子が入っているというよりも、おっさんが入っているというべきだろう。姪の母親にメールした。そうしたら、今頃気づいたのかという答えとともに、娘のおっさん化は、子供の頃からはじまっていて、これからもつづいて、止みそうもないということだった。


なぜだ。なぜクィアなのだ。いやクィアであれば、それはそれで嬉しいことなのだが、姪の場合、舘ひろしが乗り移った新垣結衣のようで、なにか不自然というか、率直に喜べないクィアなのだ。そう、そこでひとつの仮説を思いついた。もちろん、ひとつの仮説であって、真実かどうはまだわからないが。彼女のなかには父親が入っているのだ。父親の意識が彼女をそうさせているのだ。


姪の父親は、今でも、時代遅れながら、男尊女卑の激しい********県(*は多めにつけている)出身で、どこかで、女性を下に見ているところがある。だから自分の子供が男の子だったらよかったのにという意識がどこかに残っている。おそらく、父親を嫌っているようにみえて、ほんとうは父親が好きである姪は、自分が女の子なのだから、父親に愛されないと思っているふしがある。自分が男の子だったら、父親に愛されていたのにという思いは、いつしか彼女を、男の子のふりをする女の子に変えていった……。父親に愛される「息子」にみずからを同一化した。あるいは息子としてふるまうことによって、父親に愛されようとした。


では、なぜ、おやじ化なのか。一人っ子の彼女にとって、同一化のモデルとなる男性は父親しかいなかった。そして幼稚園、小学生になると、同一化の対象となる男の子は増えるが、そんななかで優位を保つためには、かわいい男の子のまねではなく、マッチョな男の子、手っ取り早いのが父親に代表される中年のおっさんの真似だった。


男に引きずられてのクィアは、あまり感心はしない。もしこの仮説が正しければの話だが。