Jennifer’s Body 2

rento2010-08-18



もちろん、この映画の唯一の欠点は、ふたりの女優が、どうみても高校生にはみえなくて、高校生のコスプレをしている20台前半の女性にしかみえないことだ(そのまんま。ふたりとも24歳くらい。撮影時はいくつだったのかわからないにしても)。ミーガン・フォックスは、『トランスフォーマー』のときとは印象がちがうのだが、それは、この作品で彼女がは悪女・魔女・悪魔であるからだけではなく、髪の毛の色がちがうからである。どちらの髪の毛がほんものなのかはわからないが、この映画の彼女はクールビューティを絵に描いたような役柄で、彼女の存在感は圧倒的である。しかし、同時に、彼女の幼馴染で友人役のアマンダ・セイフライド(サイフリッド)の熱演もこの映画の魅力のひとつで、ミュージカル映画『マンマミーア』の娘役(彼女は歌もうたえる)とは一段階も二段階も上昇した演技で見るものを圧倒する。一応、イケテイルところのミーガン・フォックスと、めがねをかけてイケテイナイところの彼女の幼なじみで同級生コンビというのが設定だが、アマンダ・セイフライドも、じゅうぶんにイケテイル。


たしかに、たとえばアマンダ・セイフライドは、リンゼイ・ローハン主演の学園映画『ミーン・ガールズ』に出ていた頃は、一応、女子高生だった。まあ『ミーン・ガール』では、リンゼイ・ローハンの敵役だったレイチェル・マクアダムスが、その後、ブレイクした(今年は『シャーロック・ホームズ』まで出ていた。タイムトラヴェラーの妻だったのは昨年だったか)のとは対照的に、リンゼイ・ローハンが壊れてしまったのだが、アマンダもリンゼイ・ローハンの凋落と反比例してできてた若手女優だが、繰り返すと、今回の彼女がこれまでのキャリアのなかで最高である。


ミーガン・フォックスは『トランスフォーマー』のときとはちがった怖さと不気味さと冷酷さをうまくだしていて、女性の肉体の美しさ(男からみた)ではなく、むしろ女性の肉体のアンカニーな醜さ、奇怪さ(おそらくそれが男性の視線に支配されない女性本来の姿の回復につながる)を徹底してたたみかけ、女性監督カリン・クサマの力強い演出とディアボロ・コーディの脚本が相乗効果を発揮している。


ディアボロ・コーディDiablo Cody(1978-)は『ジュノー』の脚本で有名だが、映画『ジュノー』の場合、エレン・ページ(『インセプション』に出ていた)の妊娠は、どうしても彼女の幼児体型では、妊娠のリアリティの肉体性が希薄で、ここれは子供が妊娠し、子供が子供を産むイメージを強調するあまり、妊娠の肉体性が消去されてしまった感があるが、『ジェニファーズ・ボディ』は、タイトルにもなっている彼女の動物的肉体性(タイトルには実は死体の意味もあるのだが)が横溢していて、『ジュノー』で失ったものを、カリン・クサマ監督の映画でとりもどした感がある*1


同じことはカリン・クサマ監督の『イーオン・フラックス』にもいえる。つまりそこで失ったものを、この映画で回復している。今回、冒頭の写真は、ネット上に出ている映画からの一場面というよりもスチールというべきだが、画像が小さくて何をしているのかわからないかもしれないが、ミーガン・フォックスが使い捨てライターで、自分の舌の先を焼いているところ。え、何と思った人は、映画をみてほしい。で、この彼女の肉体の不気味さは、彼女の冷酷さとあいまって、イーオン・フラックスにつながる。


クサマ監督が『イーオン・フラックス』で起用したシャーリーズ・セロンは、基本的に気の強い女・気難しい女で、それは最近作の『あの日、欲望の大地で』(この日本語のタイトルはうまいのか下手なのかよくわからないが)を経て、『ザ・ロード』のヴィゴ・モーテンセンの妻役で頂点に達しているような気がしているが、気の強い女、気難しい女は、決して冷酷な女ではない。むしろ、そこには人間的厚みなり深さなり苦悩があって、本来、冷酷な殺人兵器であるイーオン・フラックスは、シャーリーズ・セロンのクサマ版イーオン・フラックスでは余計な厚みが出てしまっている(イーオン・フラックスに妹がいたり、恋愛関係、女同士の反目と愛が描かれたり)――というか意図的に厚みを出してしまい、イーオン・フラックスの世界でなくなってしまっている。


アニメ版の『イーオン・フラックス』の冒頭は、彼女の目に留まろうとする蝿を、まつげで挟んで殺してしまう(まつげが、まるで食虫植物のように蝿を捕食する)ところからはじまり、すぐさま彼女の不気味な肉体性、それも昆虫のように節くれだった、しいて言えば、カマキリのような肉体が誇示されてゆくのだが、自分の舌を焼いても平気、自分の腕を切り裂いても平気で、どす黒いというよりも、どす青い血と反吐を出すミーガン・フォックス(なんじゃいと思う人は、映画を見てほしい)の肉体は、まさに、イーオン・フラックスのもっていた、非人間的なまでに不気味さをつきつめた肉体そのものである。そしてミーガン・フォックスの冷酷さ、人間的苦悩を欠いた、どこまでも薄っぺらい、薄っぺらいがゆえに凄みをます冷酷さ。カリン・クサマ監督には、どうか、ミーガン・フォックス主演で『イーオン・フラックス』をリメイクして欲しいとお願いしたい。


物語は、学園の女王様的存在のミーガン・フォックスと、彼女の幼なじみの親友だが、いけていないアマンダ・セイフリードとの対立で、フォックスとその取り巻きの女子高生たちが、まじめなアマンダをいじめたり誘惑したりする話かと思うと、ミーガン・フォックスがゆえあって、超越的に人間になってしまうため、結局、幼なじみものアマンダとの友情と憎しみを軸に展開するようになる。


肉食系とか草食系という昨今に言い方は、私は大嫌いだが、この映画に限っては、肉食系と草食系というタームは、ぴったりあてはまる。ミーガンは肉食系である。いっぽうアマンダは草食系である。やがてミーガンはほんとうに肉食系になる。この映画では、鹿が肉を食べる場面があって、あれは間違いだろうといわれているが、おそらくは意図的な設定だろう。草食系の動物も、この映画では、肉食系にかわるのである。


草食系から肉食系へ。だが、それはたんに手当たり次第に殺して食べるという、無方向な欲望の発露に転換するということではない。ミーガンとアマンダの二人の女子高生は、最後に殺しあう。だが、その殺し合いは、ふたりにとって成就できなかったレズビアン的愛の変形でもある。すでに、その前に、ミーガンとアマンダが接吻しあう場面がある。ふたりの唇が大写しになり、舌が絡まりあうというAVさながらの場面(さらにそのときミーガンの口の中が……)というのは、アマンダがボーイフレンド(草食系)とセックスするとき以上に性的な場面でありとともに、コーディの脚本にはなく、クサマ監督が付け加えた場面なのだが(拍手)、憎しみあうふたりは、愛しあうふたりでもある。アマンダは。ミーガンを殺すが、それはふたりの関係の終わりではなく、新たなはじまりでえあった。


実際、こうしたテーマによくあることだが、ミーガンとアマンダの関係は、ふたりでひとつ、分身関係にあり、テレパシーのように、アマンダとミーガンは互いのことが察知できる。そして最後はふたりが合体する。それは草食系のアマンダが、肉食系に変貌を遂げるということだけではない。あのまじめな草食系少女が最後には少年院に入れられるのだが、彼女のスリッパには動物の顔がつけられて、女の子らしくてかわいいと思うと、彼女は気に入らない相手を蹴って大怪我をさせる超凶暴な囚人に変貌をとげているのだ。


だが、くりかえすが、それは草食系の少女が、みずからのなかの肉食系的な欲望にめざめたといういことではない。むしろ、無方向の、動物的本能だけの肉食系の女子が、草食系女子の知性を手に入れて、無方向の暴力から、狙いを定めた暴力行使へと方向転換したことを意味している。つまり男への復讐である。女性よ、目覚めよ。悪辣な男を制裁せよ。それがこの映画の最後の暗黙のメッセージとなる。


エンドクレジットが写真である映画はよくあり。最近のヒット作では『ハングオーヴァー』がそれだ。薬物とアルコールで理性を失った男たちのドンちゃん騒ぎの一夜を記録している写真がつぎつぎと映されて、謎の一夜の全貌が開示されるというエンドクレジットに対して『ジェニファーズ・ボディ』のエンドクレジットの写真は、アマンダ=ミーガンに惨殺されるロック・バンドの男性メンバーたちの死体である。一応、物語の結末を、エンドクレジットで示すという巧みな構成であり、リアルな惨殺死体は、かなり衝撃的である。


そして最後、ホテルの防犯カメラに捕らえられたアマンダ=ミーガンの姿。ロック・バンドの追っかけの女の子たちの集団が、バンドメンバーの宿泊しているホテルの部屋に歓声を上げながらであろう(声は聞こえない)向かうなか、その集団とは反対方向に帰ってゆくアマンダ=ミーガンの姿がある。バンド全員を殺したあとである。映画はここでほんとうに終わる。流れにさからって生きろ。男にこびへつらうな。ほんとうの女になれ。TBSの女子アナのようにジェンダーへの裏切り者になるな(8月10日のブログ参照)。カリン・クサマ監督の世界は、ここでも戦う女Girlfightの世界だった。

*1:ディアボロ・コーディにいいたい。『ジュノー』のときもそうだが、保守的な台詞をアジア系の女子に言わせないでほしい。