伝道師へ捧げる薔薇

『シスタースマイル ドミニクの歌』の予告編を映画館でみたとき、たしかに『ドミニクの歌』は誰もが聞いて知っている曲であり、それにまつわる個人的な思い出をもつ人たちも多い。そのためいっしょに映館でその予告編をみた集団(私もその一人)で、その映画が話題になったとき、私のもった映画の印象とは、ドミニクの歌を大ヒットさせた女子修道女のたんなる成功物語、それも、たとえいろいろ悩み、波風の立つ人生だったとしても、可憐なドミニクの歌にふさわしい幸福な結末で終わる人生というものだった。実際、映画会社もそうしたイメージで映画を宣伝しようとしていたふしがある。


しかし、いまのこの時代に、善良な尼僧の成功物語なんて、見たくもない。彼女が犯罪者だったとか、レズビアンであったというのなら、見てもいいが、そうでなければ、そんなくだらない映画などみたくもないと、メールしたことを覚えている。


無知とは恐るべき。すこしたってから、そのメールに対して、ある人から返信があった。ドミニクをつくった尼僧(ジャニーヌ・デッケルス)は、レズビアンで、最後に女性の愛人と自殺しています、と。今度公開される映画は、レズビアンの部分も映画いているようですよ、と。え、え、え〜。


実際、ネット上での評判を調べてみると、レズビアンの主人公の映画だとは夢にも思わず、映画会社の宣伝にのせられて可憐な乙女の成功物語と思って見に行って、驚き、落胆、後悔した観客も多かったようだ。私が嫌った、まさにその理由ゆえに、観客は、この映画を好み、映画に期待したようだ。私はまったく逆にレズビアン映画かもしれないということで、あわてて見に行った(『ドミニク』の歌の作者については、けっこうよく知られている話なので、無知を恥じるほかないが)。以下は、もうそうそろそ上映も終わりかかっているこの映画をみた報告である。


冒頭、男女の生徒たちが、学校の活動の一環としてサッカーに興じているところからはじまる(ヨーロッパではサッカーは男女共通のスポーツであり、男女混成でも模擬試合をするようだ)。このとき主役のセシル・ド・フランスのクィアな存在感は圧倒的で、彼女に恋をしている女性のクラスメイトがいて、レズビアン映画としての方向性は冒頭から定まったように思う。


だが、実際には、期待は裏切られる。レズビアン関係は、主役の女性が拒否して進展しないし、また主人公の生き様も、みていていらいらするような愚かさ、無責任振りが目立つ。主人公が、修道院に入ったことも、みずからの強い決意のもとでの選択ではなく、口うるさい親のもとからはなれようと、衝動的に、後先のことも考えず、従妹との約束も反故にして、行ったことにすぎない。だから、使命感も自覚もない彼女は、修道院で問題ばかり起こす。いくら衝動的とはいえ、自分の意志で入ったのに、規則を無視して問題ばかり起こすのはおかしいのではという思いからはじまり、型にはなまらない自由奔放な天才というイメージと、身勝手なバカ女というイメージとが共存し、またせめぎあう。


修道院に入るまえに彼女が自宅のテレビで第二次ヴァティカン公会議のニュースをみる場面がある。キリスト教に無知な私でも、この公会議の歴史的な意義については、知っている。これを見ている彼女は、ひょっとして、改革された修道院生活にあこがれたものの、実態は旧態然たる運営と生活に落胆して、反抗をしたのかもしれないと思えてきた。


また、そもそも、いくら親の束縛を嫌ったからといい、なぜ、好き好んで、よりにもよって束縛の強い、厳格な規律で縛られた修道院に入ろうとしたのか。また修道院の女性だけの生活にあこがれたのかもしれない(最初からレズビアン的欲望に導かれた)。こうした疑問がわいてきて、映画による解釈と実際の彼女は違うのかもしれず、それが逆に映画から透けて見えるところもある(ただし、ただ時代の雰囲気として第二次ヴァチカン公会議に触れただけのことかもいれなしが)。


映画のなかでの彼女は、修道女にはおよそ似つかわしくない衝動的で無責任な行動でめだつため、これが彼女の後年の凋落と破滅の原因にようにみえてくる。こういう女性ならば、いったん名声を手に入れたならば、逆に修道女にあるまじきおこないとして、世俗の名声を求め、それにしがみつき、一発屋であとは見捨てられでも過去の栄光にしがみついて惨めな晩年の送るのだろうと予想できる。実際に、まさにそうなる。


また避妊薬をほめたたえた「黄金のピル」なる歌も、自分で密かに作るのはまだしも、それを歌として公のパフォーマンスとして披露するというのは、そのKYぶりにあきれるともいえる。結局、彼女の破滅は、自己中の彼女が、みずから招いたものといえる。映画は一面において、そう語りかける。結局、彼女は自分しか愛していなかった。この女は自分しか愛していないのだ――観客もそう感ずるにちがない。だが、同時に、映画は、いまひとつの面を徐々にあかすことになるのだが、それがレズビアン問題である。


この映画がレズビアン映画であることを知って最後に驚く観客とは異なり、この映画が、レズビアン映画であるがゆえに期待していた私は、最初から彼女がレズビアンを拒否しただけででなく、還俗してから、いっしょに暮らし始める少女の頃からの女友達とも、レズビアン関係を結ばないという条件で共同生活を始め、さらにはパパラッチによって、女性ふたりの写真が、レズビアンの共同生活として暴かれ虚偽の報道をされると、レズビアン関係が仲を裂くことになる。カトリック教会の圧力によって、公演をキャンセルされたあと、カナダで地方公演にまわるとき、ドラッグ・クィーンのパフォーマンスが、いかがわしさと低俗さと悪趣味の極致として映像化されているのをみるにつけても、この映画は、同性愛的なものを嫌悪しているかにみえて、私は、落胆する。


しかしすべてを失った彼女が、女友達のもとにもどり、レズビアン関係のなかに安らぎを見出すとき、つまり彼女が頑なに拒否していたレズビアンを受け入れる、まさに晩年において、映画は、ようやくここにきて逆転する。冒頭の彼女(少女時代の彼女)の圧倒的なクィアな存在感は、いままさに、女同士のレズビアン共同生活のなかで、ほんとうの居場所を見出したといもいえる。真の自分の発見。と同時に、それはまた、もとの少女にもどったともいえる。あるいは彼女は、最初から最後まで、少女であったともいえる。


映画の歴史のなかで、女性をめぐるあまたの主題のなかで特権化された主題のひとつに「少女」がある。これは少女の善良で無垢で可憐なところを特権化するというのではなく、いくら歳をとっても女性は最後まで少女であって、少女の頃の夢や願望、あるいは怒りや悲しみを、最後まで、絶対に失わない、妥協せぬ少女の一徹ぶりを何度も顕彰してきた。女性はみんな不思議の国のアリスである。


そうであるがゆえに、たとえばティム・バートンの『アリス・イン・ワンダーランド』もまた、大人になったというか大人になりかかったアリスも、実は、少女のアリスと同じだし、大人になって自立したアリスも(いや、結婚せずに自立した女性は、少女そのものなのだが)少女アリスであったということを強調しつづけることによって、少女映画という映画史に参加している。


この『シスタースマイル』も少女時代からはじまり、そこではぐくまれてレズビアン的関係を最後に開花させることで、逆に、主人公の女性が、最後まで、少女であったことがわかる。悪く言えば、彼女は、死ぬまで、少女のように無責任で世間知らず、やさしいけれども残酷、もろくてこわれやすいけれども頑固一徹であったということになる。しかし、まさに同じ理由で、彼女は、意志を貫き通した規範的少女の姿で立ち上げられる。彼女は、映画史が顕彰しつづけてきた、聖少女、不思議の国のアリス、裁かれるジャンヌであったことがわかるのだ。


「黄金のピル」という曲も、当時のフォークシンガーの多くが歌っていた新しい生き方を称揚する、ある意味、ありふれた曲のひとつに数えられ、またそれで終わったかもしれない。しかし、元修道女が作詞作曲し歌うことで、スキャンダルとなった。これはKYな彼女がみずから招いた破滅の種かもしれないが、しかし、彼女はあえてそれを選んだともいえる。破滅を? いやそうではなく、新しい女性の生き方(レズビアンであることも含めて)を歌うまさに新しい時代の伝道師に、彼女はなろうとしたのだ。いや、いまからみると、そうとしか思えないのではないか。


こう考えれば、『ドミニク』という可憐な歌からは想像もつかないこんなドラマが隠されていたのかというというよりも、『ドミニク』そのものが、そうした彼女の生き様を歌った歌だとあかるのだ。『ドミニク』の曲ではなく、歌詞に注目して欲しい。あれは戦うドミニクの歌である。


そしてこのドミニクの姿は、キリスト教の場合、神殿のなかで暴れ周り、形骸化し血のかよっていない既存の宗教を嘲笑したイエス・キリストにつながり、さらにそれは、このシスター・スマイルにもつながってゆく。彼女は新しい時代の、新しい女性の生き方を描く戦う修道女であった。その自分を最初に紹介したのが『ドミニク』であり、以後彼女は、新しい時代の伝道師となり、バッシングされ破滅していった。彼女は、まさに新しい時代にとっての、女性のための殉教者なのである。


そう、その悲惨のきわみのなかで、彼女こそが、ドミニクにも匹敵する伝道師であるかのように思えて、彼女が輝いてくる。あのわがままで、無責任な、気まぐれ娘の彼女が、である。あるいはそこまで考えなくても、その悲惨のきわみのなかで、彼女は、一緒に死んでくれる愛する人をみつけることができた。映画のなかで、彼女は、自分しか愛していないのではないかと思えてくることがある。しかし、映画の最後には、この世界では、誰もが自分しか愛していないことがわかる。むしろ彼女のほうが、自分以外の者を愛することができた、そしてさらにいえば、自分と同類の女性たちを愛することができた稀有な存在であるように見えてくる。


女性と一体化する女性Woman-identified-woman、あるいはレズビアン連続体のなかで、女性の自立と自由な生き方を歌たいはじめた彼女に、圧力がかかり残酷な運命が待っていた。しかし、世俗では圧力に屈したものの、またレズビアン連続体の改革も成就しなかったとしても、いっしょに死ねる女性がいたことで、彼女の意志はゆらぐことはなかった。同性愛者の自殺という、いまなお反復される悲しむべき現象のひとつでしかなかったかもしれないが、同時に、レズビアン関係のなかで死ねることは、彼女にとって幸福だったのかもしれない。彼女のその女性の恋人を死に導いた睡眠薬は、また「黄金のピル」でもあったのだ。