"Dulce et decorum est pro patria mori" Q goes to war『キャタピラー』1



タイトルはローマの詩人ホラティウスの有名な一句で、意味は、英語ではIt is sweet and proper to die for one's country.などと訳されることが多く、「お国のために死ぬことは、甘美で適切なこと」という意味*1


この一句は、また映画『ジョニーは戦場へ行った』Johnny Got His Gun(1971)の最後にも引用される。ちなみに映画の英語のタイトルは、原作の小説と同じで、直訳すれば『ジョニーは銃を取った』だが、日本語では『ジョニーは戦場へ行った』となった。今回のタイトルは、日本語のタイトルにあわせて、Q goes to war.とした(went to warのほうが正確かもしれないが、goes to warという表現はよく使うので、こちらにした)。


Qとは何か。久蔵のことである。



若松孝二監督『キャタピラー』(2010)は衝撃的な作品である。物語もそうだが、映像もまた衝撃的であり、また当然、いろいろ考えさせられた。上映時間は86分と短く、料金も一律1000円と安い。ただプログラムは、1000円と高いが、近年の映画プログラムのなかでは稀にみる情報量の多さで、日中戦争さらには第二次世界大戦について、多角的に、その暗部を検討しているもので、半藤一利すら解説文を寄稿しているのである。


今回、この映画について、戦争における肉体的損傷について、)戦時中における軍部のイメージについて、)広島とのかかわりについて、この3点にしぼって書いてみる。


2 芋虫について
戦争において目をそむけたくなる現実というのは、死体と負傷者である。これは戦争という象徴体系からはみ出し、またそれに痛烈な打撃を加えるところのリアルとして機能する。ただし死体と負傷者には厳然たる違いがある。前者は死んでるのだが、後者は生きている:意識があり、苦痛を感じている。しかし、それでも死者と負傷者は、戦争の象徴体系と物語機構のなかでは、うまく利用され、戦争を肯定する材料に使われる。死者は殉教者あるいは英雄に。また負傷者は救われることで、英雄行為が行われたことの証拠として利用される。


だが、銃弾を受けた傷、あるいは切り傷、縫い傷というような身体に痕跡として残るような傷ではなく、身体そのものが欠損してしまうな傷、正確には傷ではなく、欠損としていいようがない損傷を受けた肉体というものがある。それは死ぬよりも悲惨な運命であり、戦争がもたらす死よりもひどい運命として、戦争への恐怖心を、強いて言えば、反戦感情を思想的ではなく本能的レヴェルであおるがゆえに、危険なイメージとして扱いがやっかいであった。


映画『キャタピラー』のように四肢を失っても、死ぬことがなかった(幸いという常套句を使おうとしてはばかられたのは、もしこうなったら死んだほうが幸いだったからである)人間の場合、たとえば映画『ジョニーは戦場へ行った』のように、顔の下半分を失い、意識だけが残っているような状態を連想させる。


しかし、そこまで行かなくとも、戦争が原因で、手足のどれかを失った人間というは、そんなに出てこない。よく知られている人物とは、ゲゲゲの女房の旦那、水木しげるくらいだろうか。その意味で、興味深いのは、アメリカ映画で日本公開されなかったがDVD化されていて見ることができる『ストップ・ロス』Stop-loss, dir. by Kimberly Peirce(2008)という作品である。


イラク戦争で現地に駐留し兵役期間が終わって帰国した兵士たちが、当然の権利として除隊を希望しても、その権利を認められず強制的に再度イラクへ派遣されるという「ストップ・ロス」制度を批判した映画である。イラク戦争そのものは、とくに批判してはいない。しかし、アメリカの若者たちが、死線を潜り抜けてきたあげくに、帰国しても、平和な生活を送る権利を奪われてゆく不条理。その制度への怒りと絶望を、女性監督は、力強く伝えることに成功している。この映画は、イラク戦争を直接批判するわけではないが、何度も強制的にイラクに派遣されることで、アメリカの勇敢で有能で有望な若者たちが死んでゆく現実を嘆いている。


この映画のなかで衝撃的な場面とは、休暇中に主人公(ライアン・フィリップ)がガールフレンド(コニー・アービッシュ)とともに、イラクで戦って負傷した部下を陸軍病院のようなところ(記憶が定かでないが、軍関係の病院施設であることはまちがない)に見舞うところである。イラクで重症を負い、脚を失い腕も麻痺して視力も失い病院で寝たきりになっている黒人兵が、それでも決して希望を失わず、また元の上官(主人公)とイラクでのい出話に花を咲かせ、明るく笑うとき、その悲惨さとけなげさに、涙が出てくる。ほかにも片脚を失い松葉杖で歩く元部下もでてくる。


もちろんこうした四肢のどれかを失った部下たちは、もちろん俳優で、特殊撮影で欠損状態を示しているのだが、陸軍病院なので、おそらくほんとうに負傷して手足をどれかを失って治療に専念している元アメリカ兵たちが、いっぱい登場する。というかそうした彼らの姿が目に付く。戦争がもたらす効果のなかで、もっとも日常的でありふれたものながら、決して人目につかないよう、これまでずっと秘匿されてきた、傷痍軍人の姿、あるいは欠損した元軍人の肉体が、ここではこれでもかというかたちで提示される。


おそらく監督にしてみれば、この陸軍病院傷痍軍人たちの姿に、戦争が勝者であったはずのアメリカ社会にもたらした傷、欠損、ゆがみを象徴させたかったのではないかと思う。しかし、欠損そこにはいかなる美辞麗句をもってしても修復も償うこともできない戦争のリアルがあり、言葉を失うだろう。


『ジョニーは戦場に行った』もまた、死ぬよりも悲惨な運命を担うことになった、だが、おそらくほどなく死ぬであろう第一次世界大戦における兵士の状況もまた、言葉を失わせるものがある*2。欠損状態の人間の肉体は、それをもたらす不意条理な暴力と被虐ゆえに、言葉を失い、意識を失わせかねないものがある。それは戦争の悲惨さを、名状し難い、言葉なき不条理の衝撃とともに、私たちにたたきつける。リアルの衝撃は言葉を奪う。


しかしそうした四肢を失った肉体を通して、戦争の惨禍と人間の肉体的(精神的にも)傷つきやすさを訴えるこうしたアメリカ映画とは異なり、『キャタピラー』は、四肢を失ったQ蔵が、本来なら、被害者であるべきところ、加害者でありつづけるている。いくらグロテスクな芋虫状態になったとはいえ、その悲惨な運命に対しては、同情が生まれてもおかしくない。しかし、この映画は、そうした同情を徹底して拒んでいるように思われる。


おそらくそれはQ蔵が、戦争の二重の犠牲者であるからである。


たとえば、五体不満足になることによって、夫婦間が絆が引き裂かれるのは一般的なことかもしれないが、同時に、それによって絆が強まることだってある。英文学の名作のなかに『ジェイン・エア』という小説がある。その結末では、愛する恋人の男性が、に火事によって、半身不随になり障害者となる。その障害者となった男性とジェインは結婚するのである*3。日本の寒村で四肢を失った夫の世話をしなければいけないという『キャタピラー』の妻と比べると、ジェインの境遇は天と地のひらきがあるくらいに恵まれているかもしれないが、夫が、妻を愛し、妻だけを頼りにして生きることは、夫婦がこれ以上にない強い絆でむすばれていることを意味する。


いっぽう私が、あるいは現代の若い男性(右翼の基地外ではないとしての話だが)が、このQ蔵と同じ状態になった場合、どうなるかと考えると、もう手も足もでなくなった自分は、妻の世話のみに生きるしかないため、まず、感謝するだろう。こんな自分の面倒をみてくれて、ほんとうにありがとう、と。またこういう風になる前に、たとえば子どものできない体質であることで、毎日暴力をふるって殴っていたことをわびるだろう。そしてもし自分の妻を愛しているのなら、妻を離縁して、自分は施設にあずかってもらう。また妻がそれを拒んだり、施設で預かってもらえるような状況でなかったら、妻のためを思い、たぶん勇気があれば自殺するだろう。


そしてこの悲惨な状況ゆえに、妻も、また周囲も離縁を承諾するとしても、この悲惨のきわみにおいて、夫婦はどんな夫婦よりも強い絆で結ばれ、その確認ができるつかの間の幸福がおとずれるだろう。軍国主義下で、戦争マシーン、殺戮ロボットでしかなかった兵士も、芋虫になることによって、外見的には人間性を失うことになっても、内面的には、誰よりも人間的になれただろう。


だが、こんなお涙頂戴の展開は、この映画ではありえない。それは日本の軍国主義が、この男Qから人間性を奪い、夫婦の間での感情の交流を徹底して阻止しているからである。妻のことを下働きの女で、性の捌け口としか考えないこの男にとって、その精神は、その姿と同様に醜いのである。そしてそのような醜さを生み出したのが日本の軍国主義であってみれば、Qは、二度殺されたことになる。戦場で。そして軍国主義下の日本において。


映画の一場面。Q蔵が鉛筆を口にくわえて必死になって紙に書いている。聴覚も、声帯も奪われ、うめき声しかコミュニケーション手段がないQ蔵にとって、鉛筆を口にくわえる筆談というのは、貴重このうえないチャンスである。筆談によって、肉体欠損によって阻害されていた人間的つながりを築くことができ、絆も強化できる。筆談は不便ではあっても、声が出ないQ蔵にとっては、妻との精神的なつながりをつける最後の、そしてもっとも強力な手段である。もしこのときQ蔵が、くわえた鉛筆のたどたどしい文字で、「ありがとう」と感謝の言葉をひとつでも書いていたら、妻は、おそらく、いやいやながらでも一生面倒をみてくれるだろう。だが、彼が紙に、繰り返し書く言葉、何度も重ね書きしているので、最初はなにが書かれているかわからない言葉、それは「やりたい」なのである。


「やりたい、やりたい、やりたい、やりたい、やりたい……」。セックスがしたいということなのである。地獄に落ちろ。けだもの。(つづく)

*1:第一次大戦終結直前に戦死したウィルフレッド・オーウェンの詩に ‘Dulce et decorum est‘というタイトルの詩がある。タイトルで使われている一句の残りは詩の最後に引用される。もちろん批判的・反語的な意味で使われている。

*2:私は、当時、家で購入していた『暮らしの手帖』のなかの『ジョニーは戦場に行った』の映画紹介記事(かなり長文で、内容まで詳しく紹介していた)を読んで、気を失いそうになった記憶がある。

*3:障害者となった夫を妻が世話するという英文学の小説には、たとえば『チャタレイ夫人の恋人』のような作品もあるが、これはちょっと忘れよう。