少女時代『キャタピラー』3

映画『キャタピラー』の違和感は最後になって訪れる。農作業をしているシゲ子(寺島しのぶ)が敗戦を知り、篠原勝之が「バンザーイ、バンザーイ」と声を上げてやってくると、彼にむかって笑顔をみせる。芋虫になった夫は、家の近くのどぶ池で自殺する。ここで映画は終わると思いきや、たしかに物語は、これで完結するといえるのだが、それだけではおさまらない監督の想いとしかいいようがないのだが、元ちとせの「死んだ女の子」の歌が始まる。


エンドクレジットで流れてくる歌ではない。エンドロールの前に、歌を、歌詞が明確にわかるように字幕付きで流すのである。したがって、これは映画の物語の一部ではないが、かといってエンドクレジットからは独立する、なんとも中ぶらりんな一部なのだ。音楽にうとい私は、数年前に元ちとせが発表した歌だとは知らなかったが、哀切きわまりないその歌は、広島の原爆で死んだ女の子の歌である。広島の原爆?もちろん原爆投下の惨事は、戦争における重要な事件ではあるが、この映画が描く、あるいはこの映画に関連した出来事ではない。広島の原爆をめぐる映画ではない。ら元ちとせの歌、映画の内容とどう連携するのだろうか。広島の原爆の話ではないので、この部分は、形式面で宙ぶらりんのみならず、内容面でもちゅうぶらりんなのだ。


まさに監督の想いとしかいいようがないものがここで爆発していて、戦争に関係があれば、映画の内容とは直接連動しなくとも、つめこんでしまった。エンドクレジットのなかではなく、そこから独立させて――ということだろう。この映画に反感をもつ右翼の若者(私には言わせれ、いまでは右翼じゃない若者を探すのがむつかしいほど、最近の和若者は右翼思考に洗脳されているのだが)は、そこを映画の破綻として突いてくる。


そんなことをいっても始まらなくて、これはこれでよいのだという思いは、多くの観客の偽らざる思いだろうし、そこに映画としての破綻があっても、いいのではないかといえる。私個人的には、この最後の歌(元とちせの歌の選択はすぐれているのだが)は、昭和のインディーズ系(独立系と呼んでいた)映画の香りというか体臭がむんむんとしていて、郷愁すらおぼえるものだった。懐かしいすぎるぞ、という思いが強い。


しかしいくら監督の暴走でも、それを映画の破綻として批判する、もしくは許容するのではなく、重要な映画の要素として、その意味を考えてみてはどうだろうか。それを有意味な一部にする論理を考察してみるとき、破綻として処理したのでは見えなくなるものがあぶりだされるのではないだろうか。


戦争で四肢を失い、帰郷し生ける軍神と崇め奉られ男とその妻の物語と、広島の原爆で死んだ七歳の女の子(元ちとせの歌の内容)とは、戦争のなかのエピソードとして、別々の一部として存在するのなら、ともに戦時中の出来事であっても、それ以上のつながりはないといえる。


しかし映画は、そこにそれ以上のつながりを見るように要求してはいないだろうか。つまり両者は、ともに戦争のメタファーであり、ともに同じ事件ではないかと訴えてはいないか。かたや戦争あるいは戦闘で四肢を失い生ける屍となった兵士、かたや原爆で「紙切れみたいに」燃えた広島の女の子、ともに戦争で焼かれた戦争の犠牲者である。久蔵がどうして四肢を失うことになったのか、その理由は定かではないが、顔面に残るケロイドなどからして焼かれたこと、火傷を負って四肢を切断したと考えるのが妥当だろう。中国での久蔵の映像には炎が付随していた。そしてその久蔵の物語のあとに、紙切れみたいに燃えた女の子の歌。


と同時に火で焼かれた戦争の犠牲者は、久蔵と女の子だけではない。強姦され焼かれた中国の女性たちもそうである。久蔵、久蔵によって殺された中国の女性、広島の少女、この三つのエピソードは、同じ資格で、戦争のメタファーとみるべきであろう。そしてこれによって、広島と中国とがむすびついた。火と犠牲となった女性を契機として。


井上ひさしの戯曲『父と暮らせば』を黒木和雄監督が映画化した同名の作品があった(映画は戯曲の台詞をそのまま使ったものだが、舞台よりも映画のほうが圧倒的に迫力があった)。この映画をアメリカで上演して、記者会見なりセミナーのようなものを開いたときの報告のなかに、その場にいた中国人の青年が、日本人は戦時中、広島の原爆以上にひどいことを中国の人民に行ったのだとかみついてきたことが記されていた。


日本の青年のほとんどが右翼思考に洗脳されているのと同様に、中国の青年もほとんどが反日教育に洗脳されている結果、広島の原爆を人類にもたらされた惨禍として受け止めるどころか、反日的攻撃の材料としてしか利用できないのは愚かとしかいいようがないが、しかし、故人となられた井上ひさしも黒木監督も、広島を主題とすることで、中国の日本の残虐行為を糊塗する意図はまったくなく、むしろふたりとも、日本軍の残虐さを積極的に批判する側の立場であったことを思うと、反日思考に呪縛されている中国青年の愚かな言いがかり(さながら戦時中の日本の軍部による思想統制行為を思わせる)とはいえ、そうした批判は、井上、黒木の二人に対しても、また広島の犠牲者にとっても、失礼なこと、そして残念なことといわざるをえない。そしてこのようなことを阻止するためにも、広島の犠牲者と中国人の犠牲者は、ともに、戦争の犠牲者であることを提示する枠組みが用意されるべきである。


簡単な三段論法である。広島での犠牲は、戦争の犠牲になった日本人全体のメタファーである。原爆を投下したのはアメリカだが、抵抗できない民間人への無差別の虐殺の犠牲者たちは、日本の軍部に圧殺された日本の庶民のメタファーでもある。そして日本の軍部は、中国において、また東アジアにおいて、残虐行為を繰り返した。ゆえに日本人に殺された中国の民間人も、広島の被爆者も、日本の庶民も、ともに、戦争の犠牲者という点において、同じなのである。中国で日本軍に虐殺された人びとも、広島の被爆者も、こうして連帯できる。中国人をひどい目にあわせた日本の軍人は、あろうことか味方である日本人に対してもひどいことをしてきた、そう宣言することができるよう、戦争の意味について総括できないかぎり、被害者と加害者とを交換可能なものとして、反戦意識を欠落させた思考が横行するばかりである。


強姦されて焼き殺された中国人の女性、広島の原爆で焼き殺された少女、戦闘で大火傷を負って四肢を切断された兵士と、その兵士を介護する妻。ともに戦争の犠牲者であると同時に、四肢を失った兵士は、戦争の加害者としての側面を強調された(むしろ、こちらのほうが強調の度合いが大きい)。そうなると中国人の女性と広島の少女と寺島しのぶとが同じ犠牲者として同列に並ぶことなる。そしてこのとき広島の少女の役割が重要になる。七歳で原爆で焼き殺された彼女は、幽霊となって、戦争を呪い、平和を訴える。犠牲者にして批判者。まさにこの最後の元ちとせの歌に遭遇することによって、映画は、この少女の視点から戦争を語ってきたものだと理解できるのである*1


そう、元ちとせの歌のなかに出てくる広島の原爆で焼かれた少女は、七歳。死んだ少女は永遠に年をとらない。七歳のままである。不思議の国のアリスは何歳だか知っていますか? 七歳。この原爆で死んだ少女は、不思議の国のアリスであり、中国で焼かれた犠牲者の女性たちであり、子供の産めない女性として、また精神年齢七歳の男(KUMA)と心が通い合う寺島しのぶである。あどけなさと無垢、意地悪さと怨念をあわせもつ少女の視点が、不思議の国のアリスが、戦争の美辞麗句やレトリックを、その虚妄さをあばくのである。


付記 縦書きと横書き
この映画は、文字の多用によっても記録されるべき映画であろう。映画の中で、久蔵の軍功をたたえた新聞の紙面(額に入れられている)が何度お大写しになるだけではない。軍人勅諭というのか戦陣訓の一部が縦書きで引用される。まさにブレヒト的な異化の手法で、軍人勅諭あるいは戦陣訓の内容を批判するのではなく、そこに書かれていることを受け入れ、そこに書かれている高邁な理想が、いかに現実においては、実現されるどころか完璧に無視されたり、正反対のことがおこなわれているかを対比させ、嘲笑する手法である。久蔵の妻は、理想とされる兵士像と、現在の夫の浅ましい姿(外面的なことではない)との対比を思い出し、怒り、嘆き、笑うのである。


しかし、戦時中は文字が縦書きで画面に出てくるのに対して、玉音放送から、字幕が横書きになる。そもそも玉音放送に字幕をつけるといっても、現代語に訳したというか、かみくだいた訳を字幕とするのである。これには驚いた。玉音放送の日本語は、そんなにむつかしい日本語ではないと思うのだが、なぜさらに現代語訳をして日本語にしたのは、理解に苦しみむ。まあ若い人たちわかりやすくするためということだろうか(残念ながら、若い人たちは、右翼に洗脳されているか否かを問わず、戦争には興味はない。だから映画館には来ないのだが。実際、私が見た映画館でも圧倒的に年配者が多かった。そこでは私などは、これでも若者の部類に入るくらいだった)。元ちとせの歌の歌詞も横書きで示される。字幕が縦書きから横書きで示されることで、時代の転換を意味せんとしたのだろうか。これも、最初にもどるが、いきなり元ちとせの歌が出てくるような監督の暴走、あるいは、無頓着ぶりということになるのだろうか。ここでは字幕に関しては、ささやかな疑問を記しておこう。

*1:そしてそれはまた、少女の視点を、また少女そのものを特権化してきた映画史を彷彿とさせ、この映画史の伝統の、この映画が参加していることを高らかに宣言する。元ちとせの歌が、全体の流れからしたら脈絡がないと思われかねない元ちとせの歌が、映画を、中国へ、世界へと接続すると同時に、さらに映画史にも接続するともいえるのだが、またこれは別の話となるのかもしれない。