恐し橋


25日の『ナニコレ珍百景』は「おそろしい橋」といって、宮崎県にある「恐し橋」(おそろしばし と読むらしい)を紹介し、なぜ恐ろしいのかを説明していた。コンクリートでできた車も通れる橋に、「恐し橋」と名がついている。近くにはさらに「恐し橋2号」というのもある。さして怖い橋でもないのになぜか。


昔、近くに縄でできた吊り橋があった。その後、コンクリートの橋になったのだが、そのとき、わたるのが怖い吊り橋が、「おそろし橋」と命名されていたことから、新しい橋も「恐し橋」となったとのこと。


近くにまだ残っているつり橋の映像を流していたが、たしかに太い縄のうえを、二本の手すりとなる細い縄にぎって渡るつり橋だが、小川程度の川のうえにかかっているので、渡りにくそうなのはわかるが、足を踏み外して落ちても、大怪我をするような高さでもなかったのだが。


ただ、これまでにも珍百景でも、こわい吊り橋は、なんども出てきたような気がする(水曜日は、大学で遅くまで授業があるので、ふだんは見ることのない番組なので、あくまでも、時々見たときの記憶にすぎないのだが)。つり橋は怖い。そう思うと、なにか思い出すものがあった。


サン・ルイ・レイ橋である。ソートン・ワイルダーの戯曲『わが町』Our Townといのは、いまでも大学あるいは高校でも、上演される英語劇では、定番メニューのひとつかもしれないが、私自身、大学の英文科の授業で、かなり早い時期に、読んでいる。読んだだけではなくて、これを英語劇として上演した。英語のクラスで。いまではよく覚えていないのだが、学園祭などの企画のひとつだったのかどうかもあやふやだが、池袋近辺の公会堂のようなところを借り切って、一日か二日公演したことがある。


いまにして思うと、どうしてそんなことができたのか不思議なのだけれども(つまり、たまたま英文科のクラス(といっても、一学年一クラスだったから、学年全員といってもいいのだが)が、劇場を借りて上演するのである。演出は、同じ学年のなかで演劇活動をしている男子学生が担当した。完全に学生だけでする上演である。しかしそれにしても資金などどうしたのか、今にして思うと、謎が多い。いまでは考えられないというべきか。


私は舞台に立つことはなく、裏方だったが、実際の劇場での照明・音響効果のセッティングから操作までもすることになって、まったく初めてのことで戸惑いも多かったが、けっこう面白い体験で勉強になった。


閑話休題。そのソートン・ワイルダーに『サン・ルイ・レイの橋』という小説があることは知っていた。当時は『サン・ルイス・レイの橋』のタイトルで岩波文庫からも翻訳が出ていたのだが、読んだのか、読まなかったのか、あやふやなうちに、映画『サン・ルイ・レイの橋』を見ることになり、読んでいなかったことを確認した。


それまでサン。ルイ・レイの橋は、どこでそういう誤解が生じたのかわからなのだが、大都市の川にかかる大きな頑丈な石造りの橋(鋼鉄製の橋とは思わなかったが)と思っていた。完全に思い違いであったことがわかった。サン・ルイ・レイの橋は、ものすごいおそろし橋であったからだ。


もちろん、25日のナニコレ珍百景に出てきた「恐し橋」とは比べ物にならないほど、大きな橋なのだが、大きいといっても縄でできた吊り橋。それが渓谷にかかっている。下を見たら目がくらみそうな断崖絶壁をつないでる。恐ろしいことこのうえもない。映画だからこそ、その怖さが実感できたので、読んでいるだけでは、ただのつり橋として大きさ、高さ(落ちたら絶対に死ぬ)がわからなかったかもしれない。小説では、誰かが足を踏み外すのではなく、つり橋が落ちて、たまたまそれを渡っていた5人全員が死亡する。


彼らは(最初は、誰が死んだ5人なのかもわからないのだが)、なぜその橋を渡ることになったのか。そのひとりひとりの人生が語られ、交錯する人生をかけた彼らが、最後にその橋、おそろし橋で、運命に出会う。


そこに神の意志が働いたのかどうか、なぜ彼らは死ななければならなかったのか、それを調べ始めた修道士が、異端で告発され、調査結果をまとめた大部の本(フォリオ版)も、修道士とともに焼かれてしまうという空しい結末もさることながら、映画において死んでゆく者たちの、それまでに人生についての語り、その盛り上げ方が、なんともすばしく、見ていて、完全に落ち込んだ。号泣などしなかったが、号泣などでおさまるはずもない、深い悲しみにとらわれた。あの映画の物語は、泣くような物語では決してないが、世界でいちばん悲しい物語だと、いまでもそう思っている。

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ちなみにつり橋の映像だけで、小説と映画『サン・ルイ・レイの橋』を、あらためて思い出したのだろうか。すこし不思議だったのだが、もうひとつの原因を思い出した。シルヴィア。最近みた『シルビアのいる街』のなかで、主人公の男性が追いかけるシルヴィアらしき女性がいた。それがスペインの女優ピラール・ロペス・デ。アジャラ。彼女をみたとき、まったく気づかなかったのだが、というかあの映画では感じがちがっていたのだが、あらためてプログラムをみてみると、あっと声がでた。王女(狂女)フアナではないか。『アラトリステ』に出ていたことは覚えていない。『四人の女』(私はディエゴ・ルナのファンなのですが)に出ていた彼女と、『シルビアのいる街で』での彼女とはむすびつかなかった。そして彼女は『サン・ルイ・レイの橋』に出ていた。重要な役で。あの時は、知らない女優だったが(『王女フアン』は見ていなかった)、数日前に再会したときも、知らない女優だった。私がぼけているだけだ