13階段

以前、『13階段』(高野和明著)という小説を読んで(映画化もされたが映画はみてない)、日本における死刑執行において、13階段はないことを知った。これから死ぬ人間を13階段上らせるのは至難のわざである。実際には床が開いて、体が下に落ちる。首が絞まるというよりも首が折れるので、そこで死亡ということになる。


13階段』にも書かれていたが、床を開けるボタンは三つある。三人の係員(刑務官)が、タイミングをあわせてそれぞれボタンを同時に押す。三つのボタンのうち、二つは偽者で、ひとつだけがほんとうのスイッチになっている。誰が押したボタンがほんとうのボタンかわからないようになっていて、三人で責任を分担することになっている。ひとりだけが過大な責任を負わないようにする。


映画『休暇』(門井肇監督)をみたとき、死刑執行のようすは、小説『13階段』を読んだときと同じだったが、三つのボタンの位置が予想外のところにあった。階下の階段の壁に三つのボタンがあったように思ったのだが、今回、新聞に発表された写真と図では、死刑囚からみえない奥まったところにあって、床が開いて死刑囚が落ちるところはボタンを押す刑務官たちからも見えないようになっていた。刑場によっても構造が違うのだろうか。


ただ今回の写真は映画『休暇』における執行室とまったく同じだった。ということは、これまでにも、死刑執行室の情報(映像なども含む)は、すでに公開されていて、今回の写真と構造図は、珍しいものではない。逆に、まだまだ、なにも公開されていないというのが実情だろう。


NHKのニュースでは、世界中で死刑を廃止している国がおよそ139.死刑制度のある国は、アメリカや日本など、58か59か国(どちらか忘れた)と紹介していた。世界でまだ三分の一が死刑を存続させていると思えるのだが、べつの局(どこの局かは、ほんとうに忘れた)が、数週間前に、死刑を実施しているのは先進国ではアメリカと日本の2カ国のみと紹介してた。


え、2カ国? 中国にも死刑があったはずだが、そうか、中国はまだ先進国ではないのだと、そこでわかった(中国の人には失礼ながら、先進国には数えないらしい。まあ先進国の仲間入りをするのは、すぐだろうが)。しかし、こちらのほうの数字は、強烈である。先進国中、2カ国のみ。


アメリカは、狂信者の国である。まあアメリカ人すべてが狂信者だとは思ってはいないが、アメリカのなかで死刑を推進しているのは、狂信者たちだろう(そういう意味で、アメリカは文明国の仮面をかぶった野蛮国で、死刑を存続させている独裁国家とかわらない)。そのアメリカに追随し、国民の8割が死刑を容認している国に生まれついた私は、ほんとうにわが身の不幸を呪うぞ。


だが、それも死刑を当然のこととするようなメディアの影響が強く(そんなものに影響されやすい国民というもの国際的に恥じさらしだが)、洗脳されているとしかいいようがない。毎日放送されている刑事者ドラマは、最近では、人情話にシフトしてきて、以前のように血も涙もない悪魔のような犯罪者というのは影をひそめるようになったが、それでも悪魔としてしかいいようのない犯人像というのは、映画では圧倒的に多くなっている。


全国被害者の会を代表する人物は、ガソリンまでかけて焼き殺すような、そんな凶悪な犯人がいるという。だから死刑はあたりまえだというような意見を述べていたが、だったら、この人物は、凶悪な死刑囚が、天上がぱかっと割れて落ちてきて首の骨をおってぶらぶらしていたら、ざまあみろと、あざ笑うのだろうか。まあ笑うだろう。凶悪犯は死んであたりまえだというわけだろう。絞首刑になった人間の体がぶれるのを押さえる役割の刑務官(「支え役」というらしい)がいる。それが小林薫ふんする『休暇』の主人公の役割だった((ちなみに死刑囚は、連続テレビドラマでは裁判官をしていた西島秀俊だった。))。全国被害者の会の代表者は、そんなとき、大笑いしながら死刑囚の体をさらに下にひっぱてざまあみろとののしるのだろうか。まあ、そうするのだろう。それを連想させる映像が残っている。


数日前に触れた映画『キャタピラー』のなかで最後のほうに、記録映像がいろいろ流れるのだが、そのなかで一番衝撃的だったのは、これまで見たことがない、絞首刑になったB級C級戦犯の処刑フィルムだった。そう、思い出した。『キャタピラー』で映し出されたその記録映像のなかで、死刑執行場は、現在の死刑執行場と形態・方式の点で、あまりかわらなかったことである。そして天井がぱっくり開いて、落ちてくるB級C級戦犯の頭巾をかぶせられた死体をみて、つまりいまもだえ苦しんだか即死だったかはわからないが、とにかくいま死んだばかりの戦犯を、進駐軍の将校たちは、はっきり笑ってみているのだ。捕まえたイエローモンキーの小悪魔を処刑しているのだと思っていたら、笑いもでてこようというものだが、この光景をみて、複雑な思いにかられない日本人はいないだろう。東京裁判の審議過程が恣意的であったことを批判する右翼は、この現実をみて圧倒されるだろう。恣意的もくそもない。そもそも裁かれる戦犯たちは、人間扱いされていないのだから。B級C級戦犯のすべてが救いようのない人間のくずだったのか。虫けらみたいなものだったのか。そうではなかったとしても、連合軍の将校には虫けら以下だったので、恣意性もへったくれもなかったのである。そしていくら銃犯罪者だとしても、死者に対する礼儀をわきまえない人間、あんなやつは死んであたりまえだと平然と答えられる人間は、どこか殺人犯と同じ精神構造を共有しているのではないか。


また許しがいたいのは全国被害者の会の代表の、事実を無視した観念的な発言である。ガソリンまでかけて焼き殺した犯人というが、死刑囚は、殺人を犯したときと同じ犯人ではない。映画『休暇』は、八割が死刑を容認している悪魔の国において作られた映画だから、死刑反対をとなえてはない。死刑執行の任務につく刑務官たちの日常を淡々と描くのみである。しかし、そこから、重大な矛盾、疑問がみえてくる。


つまり死刑囚は、死が確定している人間だから、優遇されるのである。監獄で虐待されることもなく、おだやかな日々をすごして執行の日を待つ。刑が確定してから多くの死刑囚は改心する。温厚かつ人間的な善人になる――改心しても死刑からは免れないにもかかわらず。凶行を犯したその場で殺されていれば、悪魔が死刑になったといえるのだらが、裁判で死刑が確定したあとは、悪人でもなく悪魔でもなく、善人になった人間を殺すのである。


全国被害者の会の代表なら、凶悪犯は最後まで凶悪犯であり、それが虐殺されようがせせら笑ってやるという考えのようだが、死刑囚と日々接している刑務官たちは、死刑囚が、たとえ死の恐怖ゆえに発作的行動があらわれることはあっても、基本的に無害な虫も殺せぬ善人となってゆくことを知っている。その善人を殺さねばならない刑務官は、死者をあざわらうようなことはしない。死を、死者の尊厳を、どこまでも重んじているように思う。


私が死刑制度に反対するのは、これだけが理由ではないが、死刑というのは、善人を殺すのである。この現実に直面せずに、死刑を容認する8割の悪魔のような日本人は、もう一度、進駐軍に処刑してもらい嘲笑の対象となればいいのだ。