講演からひつまぶし

昔は、新幹線で名古屋駅のホームに降り立つと、むせかえるような暑さで、呼吸困難になりそうだったのだが、5日日曜日の午後2時前(一日の最高気温の時)に名古屋駅のホームに降り立ったときには、まったく平気というか、東京駅の暑さと、名古屋駅の暑さがまったく同じで、息苦しさがない。いかに猛暑かを実感した。


私が、のぞみ号に乗っている間に、名古屋の地下鉄では事件が起きていて、ひとつは金山駅では頭のおかしい女が老人の女性を刺殺した事件、そして本山(もとやま)駅では、飛び込み自殺未遂事件。金山と元山が韻を踏んでいるため、混乱して、傷害事件なのか人身事故なのか、金山駅か本山駅なのか、それが私のなかではっきりしたのは夕方のことだったが。それはともかく地下鉄東山線に乗ろうとしたら動いていない。これは予想外だったので、選択肢としては市営バスがあったが、乗り場とか路線については調べておらず、時間もかかりそうだったのでタクシーにした。タクシーに乗ってから5分もしないうちに、ラジオから東山線運行再開のニュース。え、地下鉄の駅員は当分再開しないと行っていたのに。そこで5分待っていれば、地下鉄に乗れたのに。


とはいえ、会場には余裕をもって到着。1時間30分の講演をが1時間45分になったが、内容と反応については省略。まあ、自分では、判断できないので。


後半は、映画の一場面を見ながら話をした。短くて数秒から長くて15分くらいの場面をつぎつぎと示しながら、講演。私の講演そのものは、ひどいものだったが、もし私が聴衆の一人だったら、話はよくわからないし、ひどいものだったが、見せられた映画は、それなりに面白いシーンが多く、いろいろ考えさせられたという感想をもつかもしれない。そうであれば、映像で聴衆を満足させられたかもしれず、話のひどさは、それで相殺されたかもしれない。


実際、私が選んだ場面は全部で10近くあるのだが、そのうちいくつかを見ていてたら、映画全体のことを思い出し、胸がつまってしまい、いっそこのまま聴衆のまえで涙ぐみ、声を詰まらせたら面白いかもしれないと思ったが、そんな度胸も、勇気もない。実際、人前で泣くことができるのは役者か政治家くらいのものだろう。私はそのどちらでもない。


講演のあと、関係者で熱田の蓬莱軒本店へ。知る人ぞ知る、ひつまぶしの有名店である。はじめて行くところだが、待合室には多くの人たちが待っているし、また車で来る人が多く、本店を中心に、同じ町内のいたるところに駐車場を設けている。


ひつまぶしは、予想通り美味で満足し、二次会へ。二次会は翌日お開きとなり、私がホテルに帰ったのは、25時をすぎていた。でも、前回は26時にホテルに帰ってきたので、それよりも1時間は早かった。


ひつまぶしについて

私は名古屋出身だから、子供の頃からひつまぶしを食べていた。ただし蓬莱軒で出されるような高級なものでは全然ない。ひつまぶしのルーツを語るものを読んでみると、高級と低級に二分しているというか、両者が不可分にむすびついていることがところがわかる。蓬莱軒のひつまぶしは、何度も食べたいものだが、私が子供の頃食べていた家庭料理のひつまぶしは、そんなに好きではなかった。なぜなら、ひつまぶしは、すくない鰻を細かく刻んでご飯に混ぜ、鰻のたれをかけて食べる。要は貧乏人のうな重だと思っていた。こんな貧乏人のうな重よりも、ふつうのうな重がいいと思いながら、子供の頃の私は、鰻の頭をしゃぶっていた(名古屋の鰻の調理法は関西と同じで、腹開きだから頭が残る。鰻の蒲焼を買うと、必ず頭がついてくる。その頭を、親は子供にしゃぶらせていた)。


実際、子供の頃の経験から、ひつまぶしを、貧乏人のうな重だとみなした私の直感は、あたらずとも遠からずで、戦後の食糧難時代に、数の少ない鰻の有効利用したのが始まりではないかという説もあるようだ。さらには古くなって難くなった鰻の蒲焼を、お茶漬けにして食べたという発祥説もあるが、こうなると、ますます貧乏人のうな重だ。


しかし、現在は、ふつうのうな重よりも、たくさんの鰻を堪能できるのがひつまぶしだというイメージもあり、独特の食べ方(出汁漬け・お茶漬けで食べる)ともあいまって、美味しい人気料理である。蓬莱軒の器や味を再現することは不可能だが、それらしいまねは、できそうなので、今度、自宅でも、ひつまぶしを作ってみようかと思う。これで私の子供の頃のひつまぶし記憶を消すことになるだろう――とはいえ、そこまでトラウマにはなっていないのだが。