ドリアン・グレイの肖像

7日火曜日の夜9時ちょっと前からはじまるテレビ東京の『開運なんでも鑑定団』に森鴎外の自筆原稿が出され、数枚の原稿に90万円という高値がついていた。


それはそれでいいのだが、問題は、森鴎外についての紹介。たまたま出品されたのが医学関係の雑誌にのった論文で、相手を批判するという内容だったので、森鴎外と論争という点に絞って短く簡潔に紹介していた。坪内逍遥との没理想論争を紹介したあと、つぎに有名な脚気論争を紹介。脚気病原菌説を展開した森鴎外は、脚気問題に対する対応が遅れて多くの病死者を出した日清・日露戦争の責任の一端を負っているはずである。しかしテレビ東京では脚気についてビタミンB1欠乏説は、その後、発見されたので、鴎外の責任はないかのように暗示。


こうした紹介は、ある意味、森鴎外の暗部に触れ興味深いものだが、なぜそうなったのかというと、出品された直筆原稿(『衛生療病志』という雑誌に掲載されたものらしい)が、脚気の原因をめぐり、栄養障害説を指示した医療関係者を批判したものだったからである紹介のナレーションでは、それは、旧態然たる日本の医学界に対する批判にもなっているということで、脚気問題の責任は触れずじまい。


もちろん脚気病原菌説ならびに脚気病死者に対する責任は、森鴎外一人が負うものではないだろう。しかし、当時、陸軍には、当時最先端のドイツ医学を日本に移入した東京帝大医学部関係者が君臨していたが、その一人でもあった鴎外は、やむなく脚気説を認めざるを得なかたということではない。みずから脚気病原菌説の強力に主張し、論争まで行っているのである。大勢に流されたというよりも、自ら先頭に立ったのである。そしてそれはデータがないからといって、自分で実験することはなく(たとえ実験するような立場でなくとも、実験を命ずることはできたはずだ)、陸軍、東京帝大、ドイツ(ならびにドイツ医学)、ドイツの病原菌説を鵜呑みにし、そして反海軍(当時、海軍は、イギリスと縁が深く、医学もイギリス中心だった)という線に従って論争した。科学者の態度でもなければ、反体制的刷新的態度でもなく、唾棄すべき、たんなる保守的エリートのイデオロギー的行為にすぎない。


しかも論争が没理想論争のような、思想論争とは違い、脚気病原菌説は、現実に、戦争での戦死者(病死者)を出した、まさに生死にかかわる問題だった。日清・日露戦争における脚気死亡者が海軍においては驚くほど少ないという事実からしても、戦時における陸軍の数多くの脚気死亡者(兵士)たちに、森鴎外はどう申し開きをするのか。


当時、脚気栄養不良説が立証されていなかったから、まちがった説を主張したことにはならないと、もし、本人が主張したら、それは、救急車を呼んでもどうせ死んでいたから、呼ばなかったと主張した、押尾学の主張以下である。


そもそも森鴎外は、人間のくずというべきところがあって、ドイツから鴎外を慕って、「舞姫」が日本にやってきても、追い返してしまうというのは、押尾学以下である。これは、懇意にしていた吉原の遊女が、遊郭を抜け出して鴎外の家に押しかけ結婚を迫ってきたというのとは、わけがちがう(もちろん、それだってかなりの勇気を必要とし、大きな危険をともなうものだったろうが)。そうではなくて、どうせ助かることのない臓器移植手術であっても、わが子のために必死で巨額のお金を集め、親子が決死の覚悟でアメリカに渡るような大事業であったはずだ。それを、ゴールズワージーの『林檎の木』ではないが、女を捨てた男になんとなく同情が集まるような作品をしあげて、処女作にするとは、人間のくずとしかいいようがない。


ちなみに脚気病原菌説が否定されたあと、森鴎外はどうしたのかというと、沈黙を守っただけで責任を取っていない。当時、脚気病原菌説を唱え、なかには脚気菌を発見した馬鹿もいたが、彼ら関係者は、誰一人責任をとることなく、みんな順調に出世していったのである。鴎外の名声にも傷はついていないどころか、今でも擁護するバカがいるくらいなのだ。


もちろん鴎外は責任を痛感していかもしれないが、立場上、責任をとることはできなかった。またもし自分で責任を認め謝罪していたら、霞ヶ関の改革派官僚のように、首を切られていたかもしれない。


しかし責任をとるチャンスはあったはずである。明治天皇崩御乃木希典の殉死に影響を受けて、森鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」書いた。興津弥五右衛門と乃木希典とを同一化しているという説が一般的なようだが、乃木将軍の死も、その理由は一義的に確定できない、重層決定的なものだが、日露戦争における戦死者に対する償いをしたというのも、絶対に否定しきれない理由のひとつだろう。だから、森鴎外も、脚気病原菌説で日露戦争時に死に追いやった多くの兵士たちへのつぐないとして、また自ら死ねない自分に代わって殉死小説を書いたということもいえるかもしれない。そうだとすれば、同情の余地は大いにあるだろう。


しかし、乃木将軍の殉死を好個の題材として「興津弥五右衛門の死」を書いたにすぎないともいえないだろうか。その証拠にそれ以後、森鴎外は、歴史小説のほうに強く傾斜してゆくのだから。まあ、つまり自分の責任など、頭のなかにまったくなく、良い題材を得た、それだけの興奮で、創作し、面白くなったから、その後の創作を軌道修正したというだけではないだろうか。そもそも自分のやったことは、ずっと正しかったと死ぬまで信じていたのではないだろうか、森鴎外は――また、そうなるとほんとうに、押尾学以下ということになる。


しかしこう述べたからと言って、森鴎外の文学者としての評価を低めるものではない。むしろ高めるものである。


作家が、くさりきった人間の屑であればこそ、あるいはひょっとしたら犯罪者であったなら、そのぶん、作家としての評価は高くなるだろう。文学者は、屑であっても腐敗していても犯罪者であっても、許される存在である。テレビ東京の三流テレビ作家がいくら擁護しても、森鴎外のドリアン・グレイの肖像は、年々醜くなるだけである。だからこそ、すばらしい。


もしこのドリアン・グレイの肖像が、誰の目にもとまるようになったら、そのときこそ、心霊現象が見える人たちには、森鴎外の肖像写真には、無数の脚気病死者たちの霊がとりついているところが見えるだろうし、そのときこそ、森鴎外が日本を代表する作家の一人として、〈真の文学者=保守的な腐った悪魔〉として、日本文学の伝統のなかで戴冠するときだろう。私はその栄光の時を夢見ている。