遺体

先週の講演会で、語ろうとして、語れなかったことがある。とはいえ絶対に語らなくてもいいことだったのだが。映画のなかで、たとえば『ファイト・クラブ』なんかが典型的なのだが、主人公(エドワード・ノートン)が尊敬していたストリート・ファイター(ブラッド・ピット)がいるのだが、実は、それはエドワード・ノートンだった、つまりノートンの妄想が、みずからの分身ブラッド・ピットを作り上げていたという設定のように、映像が二重化すること、それをヴィジョンではなくヴァージョンであること、一元化ではなく重ね書き(パリンプセスト)であると考えた。


似たような例としてデヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』では二人の男性は、実は一人の男性であったとか、『マルホランド・ドライヴ』では二人の女性は、実は、現実と幻想で入れ替わっていたとか、こうした興味深い例を探すといろいろでてくる。


私が引っかかっていた例は、記憶喪失者が、自分の本当の姿を忘れてしまっているのだが、周りの人間はその男の記憶喪失になる前の姿を知っていて、おびえているというか恐れているという設定の映画があった。それがどうしても思い出せない。


そこで講演会の聴衆に尋ねようかと思った。記憶喪失といっても、マット・デイモン主演の「ボーン」物ではない。なにか気になっているのだが、どうしても思い出せない。私が記憶喪失になってしまっている(これは本当だが、同時にネタ)。誰か、思いつく映画があったら教えてくれませんかと、本気で尋ねようかと思ったが、それはしなかった。まあ思い出したところで、話の流れに大きな影響はないかったからだ。


本日、ある人からメールがきて、最後に「お願い遺体します」と書いてある。そのすぐあと、すみません誤字でしたというメールが来たので、意図的なものではないとわかったのだが、それにしても、なんちゅう、変換ミスじゃい。その人は、「いたします」と打つ代わり「いたいします」と打って変換されたわかだが、「いたします」を「いたいします」と打ち間違うものか?


とはいえ、健忘症というか記憶喪失に陥っている私は、もう遺体同然の身なのだが。


付記:その映画というのは、実は、本日、思い出した。でもネタばれになるから教えない。このブログのなかでは、その映画についてレヴューしている。