緑の部屋 横浜美術館ドガ展



本日は、後期のはじまりの日だが授業がないので、横浜美術館ドガ展を見に行く。以前、このブログにも書いたが、美術の専門家に言われたのは、図録を先に購入して、実物と図録の写真を比べて図録にメモしておくと、あとから思い出すときに大いに役に立つと聞いたことがある。今回、図録は最後に購入するしかなかったのだが、あとで図録をみると、写真では作品のサイズが伝わってこないことがわかった。今回の目玉は、『エトワール』だが、小さな作品であることに驚いた。まあパステル画なので、そんなに大作ではないと頭でわかっても、実際に見ると小さいことがわかった。しかし図録では、大きく一ページ大に印刷されるから、大作にみえる。


あと絵画横の解説パネルでも、またポスターとかネット上の宣伝でも、この『エトワール』の舞台脇にいる黒服の人物に触れている。当時、有名な踊り子にはたいていパトロンがついていた。舞台で華やか脚光を浴びるバレリーナたちも、実生活では資産家の愛人として囲われていた。白い踊り子と、脇でみる黒服の人物。まさに光と影。色彩的にも、パフォーミング・アーティストのありようとしても、光と影。


私が昔、この『エトワール』に始めて接した頃は、たんに白い光と、それと対照させられた黒服の人物という、色彩と構図の問題でしか解説されなかったものが、いまや、風俗、文化、歴史面にもたちいって解説されることになった。新しい美術史の成果だろう。文学研究だけが遅れているような気がする。



ドガの絵は写真である。ドガは写真をもとにして絵画を製作していたことは、今回の展覧会でも強調されていたが、まあ、よくいわれることだが、ドガの絵そのものが写真である。どういうことかというと、絵からはみ出ている人物か物体がある。今回、第1回印象派展に出品されたという戸外の競馬場の絵があって、構図は浮世絵に影響されたともいわれ、また印象派に特有の戸外の空気感がみごとなのだが、二頭立ての馬車で、右端の黒馬、半分しか画面に入ってこなくて、のこりは枠からはみでてみえなくなっている。


写真、それもスナップ写真の場合、被写体がフレームのなかに収まらなくてはみでることはよくあるが、またそれがスナップ写真のリアリティともなっている。しかし、絵画の場合、画家が題材をコントロールできるので、馬が体半分で切れているというのは、考えられないことなのだ。しかしドガは切りまくる。枠の中にきっちり収めようとしない。ドガにおいては絵画が帯びるリアリティの基準がスナップ写真であるからだ。スナップ写真でとったようなリアリティのある絵画をドガはつくろうとしていた。


『エトワール』にはそういうところはないが、もうひとつの有名作品にバレーの指導がおこなわれている絵があって、これなども右端がへんなところで切れている。ドガは、浴女の絵をして、日常的な女性の肉体のあるがままの姿をのぞき見するというようなことを言っているのだが、スナップショットあるいはのぞき見のリアリティこそ、ドガの絵のリアリティであった。いつも絵の題材がフレーム内に、うまく収まっていないのである。フレームによって、不適切な切断がなされるのである。


この点、興味深かったのは、マネの妻がピアノを演奏しているのを聞いている夫のマネをあつかったドガの絵である。マネの妻がピアノを演奏しているのを真横から捉えた絵は、ピアノとマネの妻の横顔の部分が、切られてわからない。残っているのはマネの妻の後頭部と背中と体側のみ。もともとあった部分をマネが、自分の妻の描き方が気に入らなかったので、その部分を切断して処分したからだと説明されている。


しかし、ほんとうだろうか。ドガの家の室内を移した写真も展示してあったのだが、そのなかに、この右端が切り取られた絵が、ちゃんと額にいれて壁に飾られている。つまり右端を切り取ったほうが、絵として面白かったのではないだろうか。こうした不適切な切断分離が、絵画にリアリティを、あるいは絵画の面白さを演出することを、ドガが発見した、まさに最初の作品だったのでは。先輩のマネは、「私の妻が描かれているこの部分を、ばっさり切り取ったほうが、いいのでは」といって、実際にそうしたら、絵が格段に引き締まってみえたということではないだろうか。



私が子供の頃には、美術館にソファーと言うかベンチというか座れるものなど展示室のなかに置いてなかった。しかし最近では展示室のなかに、座れるソファーなどが置いてあるのはごくふつうのことだ。西洋の美術館では、展示室に座れるところがあるのは、けっこう前から気づいていたものの、ドガの『美術館訪問』という絵をみたら、その頃から、展示室にソファーが置いてあることを知り、けっこう昔からあるのだと驚いた。



『美術館訪問』という絵は、美術館の展示室の内部を描いたもので、二人の姉妹のうち、ひとりがソファに腰をおろし、もうひとりが立っている絵。いつごろから展示室に座れる場所を作ったのだろうかと不思議に思った。ちなみに横浜美術館ドガ展、展示室すべてにソファーが置かれてはいないが、『美術館訪問』が展示してある部屋には、絵のなかで描かれているのと、同じようなソファーがフロアに置かれていて、こういう遊び心、好きです。



広報大使に世界的バレリーナ吉田都氏がなっているのだが、今年の7月に上野の東京文化会館にバレー『ロミオとジュリエット』で、ジュリエットの吉田都を見たばかりの私にとって、吉田都の影が、展覧会場のどこにもなかったのは、ちょっと残念だった。


5 In the Green Room
ドガの肖像がをいくつかみていると、たんにモデルとなった人の姿かたちが絵画として定着しているというのではなく、モデルとなった人が、画家の前で、いかにもポーズをとっていますというのが透けてみえるような不思議な感じにとらわれた。いや、肖像がというのは、そういうもんでしょうといわれればそれまでだが、なにか普通の肖像画、肖像写真でもいいが、そうしたものは、モデルとなった人物について、いろいろなことを伝えてくれるのだが、ドガ肖像画は、いまモデルとなった人物が画家の前に、ぎこちなくポーズをとっていますよということを明確に伝えてくれていて、ふうつうの肖像画とは何か違うような気がした。この問題は、私が忘れてしまわなければ、もうすこし考えてみたい。


違和感は、べつのところにもあった。『緑の部屋の踊り子たち』というタイトルがついている絵を前にして、私はわが目を疑った。緑の部屋が、緑色に見えないのだ。見る角度を変えたり、絵画に目をちかづけて細部を仔細に観察したのだが、緑色がない。私の目が緑色を感知しなくなったのだるろうかとあせった。それとも絵画が退色して緑色が消えたのか。あるいはなにかいわれがあって、緑でもないのに緑の部屋と呼ばれたところがあったのかもしれないと推測したりもした。


話のオチが見えている人はいるかもしれないが、私自身、まったく気づかなかったのだ。混乱した頭で、ふとその絵のタイトルのプレートを見ると、日本語のタイトルの下に英語でタイトルがあって、Dancers in the Green Roomとある(これは、ほんとうのこと)。はあ!? あの、あの、Green Roomというのは、「緑の部屋」ではなく、「楽屋」とか「舞台裏」とか「控の間」と言う意味でしょう。英和辞典などではGreenroomとくっつけて表記してあるから、Greenとroomがくっついていれば「楽屋」、離れていれば「緑の部屋」と考えたのかもしれないが、英語ではGreenroomでもGreen Roomでも「楽屋」の意味になる。このバカ誤訳を気づかなかった学芸員、減俸処分ものだろう。