孤児なる証明


映画冬の小鳥(ウニー・ルコント監督2009)は、いろいろ考えさせられる映画で、ともかく考えさせられたことを断章として記しておきたい。


この映画をみて、昨年みた映画エスターと『ホースマンを思い出した。どちらも孤児・養子が重要な位置をしめる。『ホースマン』にいたっては、この映画と同じ、アジアからの養子だ(チャン・ツィーが演じている)。また『エスター』も『ホースマン』もアメリカで、「全く新しい生活」(ちなみにこれは『冬の小鳥』のフランス語原題でもある)に入る養子が、その家庭を破壊してゆく。二つの映画は、外国から来た養子を不気味なものとして提示しすぎている。『エスター』の場合、アメリカの養子縁組協会から批判が出たくらいで、いくらサイコスリラーとはいえ、養子(海外からの養子)を悪く描きすぎている。


『冬の小鳥』は、児童養護施設での生活と、養子縁組の成立までを、ある意味、淡々と描いていて、その点で、美化もしていないが、悪くも描いていないため、等身大のリアルな孤児・養子物語が。監督自身の経験とも響きあいながら提示される佳編といえるかもしれない。しかし、淡々と描かれるだけに、救いがないつらい現実というのが見えてくる。というかその救いのなさに、身の凍る思いがする。まさに映画のなかの冬景色のいてつく感じは、観ている者に確実に浸透する。


主人公の女の子は、親が死んだわけでもない。父親が再婚したため、父親に捨てられたのである。もう父親とは二度と会えないようだし、父親との幸福な思いでも、消えようとしている。孤児なら、施設で仲間たちと暮らし、成人したら巣立っていけばいいのだが、彼女たちが施設を離れるのは、海外養子縁組に決まったときに限られる。親がいなくても、りっぱに育ち、韓国社会で自立するという道は閉ざされている。父親に見捨てられた彼女は、さらに母国とも縁を切らなければいけないのである。


映画の最後、フランスの空港に到着した主人公の女の子が、フランス人の養父母と出迎えゲートで出会うところで終わるのだが、そこに希望にみちた新生活はあらわれていない。フランス人養父母とは、この映画で描かれる他の事例とは異なり、書類だけ養子縁組が決まったようで、主人公の女の子は養父母の顔すら知らないのである。だから彼女は韓国からフランスまで一人でやってくる。韓国出発時には付き添いのフランス人らしき人物がいたのだが、フランスの空港に到着してからは、付き添いがいなくなり(演出だろうが)、小さな女の子がひとり歩んでゆくだけである。彼女は意志強固でしっかりしているから、フランスでの新たな生活に溶け込み、フランス議会の人種差別・民族蔑視にもめげず、元気に生きていくという予想もつくが、同時に、彼女が友人とともに「養子」にした、冬の小鳥のように、あえなく死んでしまうかもしれない。未来は不確定なままのである。


施設から出たらそこは外国なのである。では、養子縁組できなかったら、この映画では脚の悪い女の子が歳をとっても、養子縁組先がなく、あっても、家政婦としてただ働きさせられるという、海外養子縁組よりはるかにつらい運命しか待っていない。寮母にも、それがわかっているから、送り出すのはつらい。この過酷な運命から逃れるため、彼女は、日本風に言うと御用聞きの若い男に恋をし結婚を夢見る。つまり、もしこの男性と結ばれることになれば、施設から出てゆける。だが、この男性に出したラヴレターの返事が思わしくないことから、彼女はもうひとつの脱出方法を試みる。自殺である。だが、それも未遂に終わったため、結局、施設を出て、無給の家政婦という奴隷生活へと追いやられるのである。


この女の子(といっても施設のなかでは唯一、成人に誓い女性)を演じているのは、コ・アソン。あのグエムル(監督ポン・ジュノ2006)のなかで、怪物に連れ去られる中学生の女の子である(ポスターとかDVDのケースで提示されている、後ろから怪物が迫ってくるのに気づいていない制服姿の中学生、それが彼女である)。この映画では、怪物に連れ去られるよりも過酷な運命が彼女を待っている。


こう考えると、この映画は、たしかに救いがなく観ていてつらい映画である。冬の冷気が心の奥底までしみこんでくるような映画である。ただ、それをストレートに感じられないのは、全体が抑えた映像表現になっていること、そしてまた、過酷な運命の只中にあわれる生への執着やたくましさ、そして笑いが、これもまた抑えた様式で表現されるからだ。先ほどのコ・アソンが、施設の全員の前で、自殺をするようなまねはしないと公開懺悔というか公開での反省の弁を述べるときに、年下の子供たちから、いつもの遊び友達のお姉さんが神妙な顔で反省しているのがおかしくて、笑い声が漏れ、それにつられて彼女自身も笑ってしまうという場面があるが、この印象的な場面は、この映画では決して例外ではない。



赤い靴はいてた女の子、異人さんに連れられて行っちゃった。これは海外養子縁組を歌った歌であることは、ほぼまちがいない。この日本人の女の子は、外国人にもらわれて横浜の港から外国に行く。女の子は二度と日本の土は踏まないかもれいないが、海外の心優しい養父母のもとで育てられ、高い教育を受け、国際人として活躍するかもしれない。だから可愛そうではなく、羨ましいともいえるのである。


しかし、ここにある暗示は、望ましい運命(それは可能性としてまちがいなくあるとしても)どころか、どちらかというと不気味な悲惨な運命ではないか。異人さんにつれられていく女の子は、基本的に性的愛玩物として売られてゆくのではないか。日本の田舎において娼婦に売られてゆく女の子のイメージが、横浜から外国行きの船にのる女の子のイメージに重ね合わせられる。あるいはこの歌ができた頃には思いも及ばなかったことかもしれないが、さしずめいまなら、外国人に連れ去られる子供は、臓器移植市場に売り飛ばされる闇の子供たちにほかならない。幸せな養子縁組生活から臓器移植のために殺される――運命の幅は大きい。だが養子縁組も、性奴隷も、臓器移植も、すべて一括して人身売買という運命でくくられる。


実際『冬の小鳥』をみていて、日本には、おそらくない海外養子縁組制度について、身寄りのない子供たちを引き取る外国人はりっぱなものだと思いつつも、これは体のいい人身売買ではないかという思いは拭い去れなかった。いや、ひょっとしたら、人間以下かもしれないのだ。欧米人がアジア人の子供を引き取る。なぜアジア人なのか(アフリカ人も多いだろうが)。白人が背負うべき重荷という意識からか。それはあるだろうが、同時に、アジア・アフリカ人が欧米の白人とは違う人種である以上、ペットになれるからだ。


ペットの定義、それは人間に近いのだが人間ではない。犬や猫は、私たち家族の一員だが、しかし、ほんとうの人間の家族ではない。欧米の白人にとって、アジア・アフリカ人は、どちらかという白人よりも動物に近い存在なのだ。だから差別もするが、ペットしてもかわいがる。白人の優位はゆるぎないから、欧米的基準からは醜いアジア・アフリカ人も、ペットしてみればかわいい(ブルドックは醜い犬の極致だが、同時に、とても可愛くはないだろうか)。結局、アジア人の子供を養子縁組する欧米人は、ペット(それも犬や猫や猿よりも頭のいいペット、イエローモンキー)と暮らしたいのだ。施設の少女たちが、親鳥から捨てられた小鳥を、自分たちの分身であるかのように、飼育するとき、少女たちのやさしい気持ちに心打たれるあなたも、親に捨てられた人間の子供たちを飼育しようとする欧米人に心打たれるだろうか。あなたがそこに感じ取るのは、醜い顔のアジア人を、その醜さゆえにペットとして可愛がる欧米人の不気味さではないか。


なにかこの映画『冬の小鳥』について、意地悪な見方、あるいは邪悪な見方をしているのではないかと、思われるのかもしれないが、それはちがう。むしろ、この映画そのものが、こうした思いを抱かずにはいられない、静かな訴えかけをしているのだ。


たとえば仲良くしていた年長の女の子がアメリカ人夫婦の養子となって施設を去ってしまうため、主人公の少女が、裏切られた思いと、孤独感に耐えきれず、クリスマスのプレゼントの人形を壊してしまうエピソードがある。キリスト教組織を通して全世界から送られてくるクリスマス・プレゼントは、生半可な安物ではなく、この施設には不釣合いなほど立派なものなのだが、その豪華な人形の首や手足をもいでしまう女の子は、ほかの女の子たちの人形も、同様に、ばらばらにしてしまう。しかし、彼女は、たんに虫の居所が悪くてかんしゃくを起こしているのではない。彼女が壊している人形、それはまさに愛玩物としてもらわれてゆく彼女たちの表象そのものであり、それを壊している彼女は、外国人の人形としての自分を呪い、そうした自分を消そうとしているのだ。それが映画からわかる。自分たちが人形にすぎないことを彼女たちは理解している。なぜ親に見捨てられたか、いかなる誤解から親が自分を見捨てたのか理解している彼女はまた、自分が、孤児たちが、欧米人の人形にすぎないことも理解しているのである。


ペット(冬の小鳥)? 人形?――いやそれだけではない。この児童養護施設には、女の子しかいない。男の子の孤児は、いないのである。なぜ? 私には、制度的なことはなにもわからないが、たとえ、韓国では、制度上、男女に分けておくということであるとしても、女の子だけの児童養護施設を舞台にしたことの意味は大きい。辺鄙な田舎にあるい養護施設は、逃げ出しても、周囲に原野が広がるだけで、行き場所がない。女の子は、女の子たちは、そこに閉じ込められて、そこで時々、品評会みたいに、養父母になる夫婦に品定めされ、連れ出されてゆく――そんな女の子だけの施設。


これはもう映画ミネハハとかエコール(ともに原作はヴェデキントの短編「ミネハハ」)の世界ではないだろうか。ジョン・アーヴィン監督の『ミネハハ』はイタリア風B級ホラー・サスペンス映画であり、いっぽう『エコール』は、謎が多くとも残酷なシーンはなくオープンエンディングなのだが、いつ残酷で正視に堪えないグロテスクな映像・場面展開になるのか、観客は、最後まで緊張しつづけてみる点、『ミネハナ』よりも怖い映画である。いずれも少女たちが性奴隷として飼育されるという明示的・暗示的設定がある。映画は、児童ポルノの一歩手前というか、ふりむけば児童ポルノの暗部がブラックホールのごとく待ち構えているのだ。


『冬の小鳥』は、孤児たちの、怒っても抗えない過酷な運命を、声高にその非を鳴らすのではなく冷静に哀切に描く映画なのだが、見ている過程で、そう、いくつものホラー映画を思い出すことになるのだ。この状況――人里はなれた僻地にたたずむ少女だけの児童養護施設、そしてそこから海外に養子縁組でもらわれてゆく少女たち――は、まさに恐怖の宿る、あるいは恐怖がそこから生まれる始まりの場所ともいうべき性格をもっている。映画は、そうしたホラー映画の原基ともいえるリアルな原像を提示する。その原像とは、ホラー映画という想像界あるいは象徴界のいずれにも回収されない、リアルな現実界そのものなのだが、この現実界は、ホラー映画が華麗な装飾にみえてしまうほど、鮮やかさも華麗さもない寒々としたものだった。逆に、その冬の光景を糊塗するために、数々のホラーが、生まれてきたし、あるいはまこれからも生まれるのである。


ちなみに『冬の小鳥』のなかで、主人公の女の子がなぜ父親から嫌われたかを話すシーンがある。それはその少女の父親が再婚し、再婚相手の赤ん坊を、その女の子が傷つけようとしている誤解された結果だった。親が再婚して、再婚相手との間に子供ができるとき、前夫・前妻の子供は、家庭内で孤児化することがある。私の母親も、自分の母親が死んだために、家庭では孤児だった。そのため家庭にいて、育ての親たちがいても孤児になるケースは多い。ここから鬼婆あるいは魔女のような継母が、幼児を虐待するというホラーが生まれるいっぽうで、孤児化した前夫・前妻の子供が、新しい子供に危害を加えるのではないかというホラーが生まれる。『冬の小鳥』のなかで少女の告白を聞いたとき、私は映画ジョシュアを思い出した。ジョシュアは養子でも孤児でもないが、風変わりなというか不気味な子供で、実の両親からも疎まれているが、その両親に、新しく子供が生まれる。すると両親はジョシュアが、新しい赤ん坊に危害を加えるのではないかと不安に激しくさいなまれる――激しいとは、発狂するまでになるということだ(実際、観客も、不安で発狂しそうになる)。ジョシュアには、『ホースマン』の中国人養子(チャン・ツィーが演じていた)あるいは『エスター』のエスターのように、養子縁組された家庭を破壊してゆく外国人養子の面影がある――というか、そうしたホラーを強く連想させる。ジョシュアは、彼らの一族なのである。


となると『冬の小鳥』の女の子も、養子縁組される前に、実の父親の家庭内ですでに養子化していたこと、それも恐怖の養子のイメージで認識されていた――誤解されていた――ことがわかる。養子とか孤児とは、恐怖の温床なのである。となると、ここから映画のリアルとホラーの関係が、逆からもみえてくる。


先に、養子縁組制度には、ホラーを生み出す文化的原基という面があると述べた。逆から言うと、養子とか孤児をめぐるホラー(ちなみにフロイトのいうファミリー・ロマンスとは、子供が、ある時期、自分のことを、もらい子ではなかいと思う、養子・孤児幻想のことだった)も、そのおどろおどろしい細部なり装飾を取り払い、また文化的伝統的な養子・孤児表象の沈殿物を洗い出し洗い流し、ただ、現実の養子縁組制度を、白日の下にさらるとき、そこにあるのは児童たちが、児童養護施設で、慎ましやかに暮らしながら、過酷な運命に耐えるという、寒々とした冬の景色でしかない。そこをしっかりみてくれ。そのリアルから目をそらさないでくれというメッセージを映画は、発信しているようにみえる。現実はホラーほど面白くない。その面白くない現実を、リアルを、みてくれと映画は語りかける。