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20世紀初頭にヨーロッパで活躍した批評家にエドマンド・ブランデスという人物がいる。いまではあまり読まれていないと思うのだが、当時は絶大な人気と知名度を誇った人物である。そのブランデスが、子供の頃の思い出を書いている。


ある日、エドマンド坊やは、母親に、質問をした。「ねえ、ママ、学校でみんながユダヤ人の話をしていて、ユダヤ人が怖いなんていっているけれど、ユダヤ人って何?」「あら坊や、ユダヤ人を知らないの。だったら、これから見せてあげるわ」「え、ママ、ユダヤ人がこれから見れるの?わーい、うれしいな、わくわく」するとママはエドマンド坊やの手をとって居間につれていきました。そうして坊やに、「じゃあ、目をしっかり閉じて」「うん、ママ、閉じたよ」。それを聞くとママは、坊やを抱きかかえて大きな鏡の前に立ちました。
おもむろにママはいいました


「さあ、坊や、目を開けて。いま坊やの目の前にいる人、これがユダヤ人んですよ。ちなみにママもユダヤ人ですよ」これを聞くとエドマンド坊やはぎゃーと叫んで失神したそうである。


このエピソードを語っているエドマンド・ブランデスが、ユダヤ人であるからいいようなもの、下手をするととんでもないユダヤ人差別エピソードかもしれない。あるいはユダヤ人ならこういう自虐的なエピソードを好むのかもしれないが、このエピソード、さらに類似のエピソードから、いろいろ考えることができるが、要は、自分を発見することの衝撃であろう。


私自身、似たような経験をしたことがある。イギリスの町を歩いていたとき、ふと、アジア人らしき男の姿が目に入った。じろじろ見たわけではないが、貧相な小太りのアジア人で、日本人という可能性もあったが、知らん顔をしてやりすごそうとしたところ、むこうもこちらに歩いてくる。そしてかなり距離が縮まった瞬間、私は、わかったのだ。それはショーウィンドーに映った私の姿だったということを。


そんなバカなと思うかもしれないが、類似の経験は、外国で暮らしたことのある方なら、よくご存知だろう。私の場合は白人にまじってのことだったが、短期の旅行ならそんなことはないだろうが、すこし長く暮らすと、自分がアジア人、日本人であることを忘れてしまって、なんだが自分を白人と思い込んでしまう。だからアジア人としての自分の姿をみつけも、自分だとわからない。


とはいえ、私の経験はそれで終わってしまって、ほんとうに白人社会になじんでいるわけではなかったのに、真相は、その逆だったのに、なぜか自分を白人に思ってしまっていた自分を反省した。家族の一員として育てられるペットが、自分を人間と思い込むようなものだった。


しかし、ここから思想的発展を遂げた人物がいる。フランツ・ファノンである。フランスの植民地下のマルチニック島で、フランスのエリート植民地教育をうけたファノンは、フランスに留学したとき、バスだったかなんだかった忘れたが、交通機関に乗っていたとき、前の席に座っていたフランス人母子が、ファンノンをみて、男の子だったか女の子だったか忘れたが、「黒人怖い」といって泣き出した。


実は、自分を白人のフランス人だと思い込んでいた(フランスのエリート教育を受けたからら)ファノンは、この経験から衝撃を受ける。そしてそこから思想が生まれた。みずからのイメージが、どうもおぞましいらしいということを発見した瞬間こそ、ファノンにとって、植民地人の心理、植民地文化や社会のありかたについて考えるきっかけになった。この項つづく。