Excitable Image 2

先の11月25日のExcitable Imageでは、ユダヤ人ギャグであって、差別的になっているので、たとえば宇宙人の母親と子供として考えてみる。この母子はどうみても宇宙人なのだが、子供のほうは自分が地球人だと思い込んでいて、母親から、おまえはほんとうは宇宙人なのだよと聞かされる(先の文脈では、そういうイメージを見せられる)、そして驚くというのが、この小話のポイントということになろう。


だったら、勘違いというか、何も知らないのか、あるいは逃げているかもしれない子供に対して、私も、その母親のように、真の姿を示してもいい、そんな状況がある。宇宙人が誰なのか知らない宇宙人の子供を鏡の前に立たせ、よくみてごらん、ここに映っているあなたが宇宙人なのですよ。と。


ある大学(本務校ではないが、でも状況は同じかもしれない)で、批評理論の授業をすると、当然、そのレパートリーの中には、「クィア理論」も入ってくる。すると、学生・院生たちは、その回に限って、それまでの知っているぞという態度(知ったかぶりとは違う)から、急に、無垢と無知の態度に変わってしまう。つまり、私は何も知りません。これまで興味を持つこともなかったので、いろいろ教えてくださいという態度になる。


つまり、私が、なにか人跡未踏の奥地に暮らしている民族について入手しがたい貴重な情報をもっているので、その一端でも知らせて欲しいという態度になる。たしかにいまでもこの地球上には知られざる民族はあるかもしれないが、私が話しているのは、そうした特殊な民族のことではなく、ゲイとかレズビアンの話である。もちろんカミングアウトしているゲイやレズビアンの人たちのコアな生活は未知の部分、神秘的な部分は多い。しかし、そうしたエスノメソドロジーの話をするのではなく、批評理論におけるクィア理論についてであり、かりにクィア的欲望があるとして、それは、べつに珍しいものでもなんでもなく、誰にであるものなのだ。つまり、外国人、異民族、異人種の話をしているのではないのである。


たとえていうのなら、性、性的欲望、性現象というような観点から文学や文化を考えて見ましょうというときに、先生、性欲ってなんですか。よくわからないので教えてくれませんかと、皮肉や嫌がらせでなく、まじめに質問してくるようなもので、なんだ、そのかまととぶりは(カマトトという表現は今ではもう使わないかもしれないが)、なんだそのぶりっ子ぶりは(ぶりっ子という言葉も今では使わないかもしれないが)と、いいたくなるのは当然である。同じことが、クィア関係だと堂々とまかりとおる。先生、私はクィア的欲望については全く知りません。どうか教えてくださいと、冗談かと思ったら、本気で質問してくるのである。


こんとき、それこそ11月25日のエドマンド・ブランデスの母親ではないが、「全員、鏡の前に立って、そして目を閉じて、これからクィアな人たちを皆さんの前に出現させます。ゆっくり目を見開いて、鏡に映っているクィアな人たちをじっくり見て御覧なさい、ちなみに、私もクィアです」と言ってやりたくなる。


いまどきオナニーをして罪悪感を抱く人はいないだろうが、西洋人がかつてオナニーに罪悪感を抱いた頃、自分のなかに同性に対する欲望のようなものを見出したとき、彼らは、どうしようもなくあわてふためいた。これをホモセクシュアル・パニックというのだが、オナニーに関する罪悪感はいまや消滅したとしても、ホモセクシュアル・パニックというのは、存在しているのはどうしてなのだろう。べつに学生全員が同性愛者になれということではない。そうではなくて、同性愛的なものを理解している、共感できる、同性愛に関心があるということだけでも、変な目でみられてしまうという恐れがあるのだろう。とにかく距離をおきたい。自分のなかに同性愛的欲望があるなどとはもってのほかである。同性愛者の友達なんかいない……。完全に、人種差別、民族差別の構造を反復している。恥を知れといってやりたい。


ほんとうにそんな学生・院生は恥を知るべきである。皆、同性愛者になれといっているのではない。私のようなろくな業績もない人間、似非学者ともいえないような人間が学問を云々する資格はないかもしれないが、学問をしていることは事実で、学問の重さについても、よく知っている。


古典的な学問の世界では、たとえどのようなイデオロギー、思想、信条でも、また出自が何であれ、学問対象に対しては冷静沈着に真摯に接近し考察すべきであって、学問対象を、社会的偏見によって遠ざけることは、研究者の風上にも置けない許しがたい行為なのである。したがって学問の世界には、好き嫌いはあってはならず、イデオロギー闘争もない(実際には、あるのだが、それはあるべき姿ではない)。学問の世界においては、現実社会にはない稀有な平等と自由とが達成されるのである。平等と自由が嫌いな人間は、その数は限りなく多いが、少なくとも研究者になれないし、もし研究者になっていれば、恥を知るべきなのである。