本日の映画2


オリジナルと今回の作品とのちがいは、オリジナルの建物の上下左右にいろいろな建物を付け足したり、あるいは、建物を簡略化してすっきりした形状にしたというよりも、比較的単純な建物の内部をいろいろ作りこんだというべきだろうか。あっさりした単純な建物のようにみえて、内部が迷路になっていたり、屈折があったりして、そのへんが面白いとでもいえようか。


まあオリジナルと違いすぎる設定も目に付くようになったのだが、続編なしの今回完結作品でもあるので、違いすぎても、影響はないというところだろう。ネタバレにならない程度に一例を。イスカンダルにあるという放射能除去装置は、地球側が勝手にこしらえた嘘ではあるが、同時に、それと同じようなものは実在したということになっている。これだけでも大きなネタバレなので、それ以上はなし。


どんな役でもこなせるというのは優れた俳優だが、どんな役をやっても、いつも同じというのがスターであって、吉永小百合とか木村拓也は、そういう意味で、まぎれもなく大スターである。


それでも今回木村拓也は、貫禄のようなものが出てきて、これはヤマトの映画であるとともに、木村拓也の映画でもある。ポスターに両者が並んでいるのは、たんに、主役が木村拓也であるという宣伝であるだけでなく、木村拓也のドラマであるという意味もかねているのだろう。ヤマトと木村のダブルトップということになる。


たとえば兵役を離れていた木村が、一般人ともに、ヤマトの乗組員に志願するのだが、すぐに採用されると、支給されるユニフォームを拒み、前から着ている自分用のユニフォームを着るところから、古巣に帰還のイメージが強くなり、さらに、復帰しただけでなく、いきなり攻撃班のチーフとして、乗組員に命令を下す立場になっているという、アットホーム感もあって、これが彼の貫禄づくりに貢献している。彼は、いわゆる「ベテラン」だったのだ。


と同時に、すでに述べたように、ヤマトの行動と、木村の行動とは重なる。埋もれていたヤマトが発進するイメージは、埋もれていた木村がヒーローになってゆく姿と重なる。どちらも、互いのメタファーとなっている。ヤマトの声が木村の声であり、木村の姿がヤマトの姿と重なる。こういうイメージの運動のなかで、映画はその最後を迎えることになる。その意味で、この映画のポスターのように、ヤマトと木村はダブルトップ。いやダブルでもある。


あと映画は、オリジナルの映画からひきずっているのかもしれないが、ヤマトではなく大和が存在していた太平洋戦争の時代の戦争がパラダイムになっているので、古い。映画『ヤマト』の冒頭などは、ソロモン海戦日本海海戦である(ソロモンといってもガンダムじゃないよ)。上下左右もない宇宙空間で、縦列の艦隊が、まるで洋上での戦いのように、同一平面上で平行になって撃ち合うのである。火星近くの宇宙空間なのに、ソロモン海戦あるいは日本海海戦とさほどかわらないのはなぜか。


観客の若者たちが感想を述べていたときに、第三艦橋が下に落ちるのはどうしてかと疑問を呈していて、なるほどと思った。ネット上ではすでに話題になっているのかもしれないが、宇宙空間でヤマトから切り離された第三艦橋が下に落ちてゆくというのは、たしかにおかしい。


あるいは最近『妖星ゴラス』のDVDを見た。池部亮氏死去にともなって、往年の名優が活躍する映画をみたくなって東宝のSF特撮映画『妖星ゴラス』をみた。リアルタイムでも、つまり子供頃映画館でみて、けっこう感動し、怖かったりもした映画は、さすがにいまかみたら特撮の部分が貧相すぎて、なつかしいけれどもリアリティはなかった。宇宙船など、外部はもう、どうしようもないのだが、内部にしても、もうちょっと作りこんだらどうかと思えるものだった。今回ヤマトでは、艦長や古代進らがいる艦橋が、異様に小さくて狭い。実際の大和もそのぐらないのかどうか知らないが、オリジナルの漫画やアニメでは、艦橋は、異様に大きいのに、今回の映画では異様にせせこましい。なぜなのか、よくわからないのだが、昭和の東宝特撮映画の宇宙船の貧相な内部を、あるいは昭和の特撮映画全般の貧相さを、ノスタルジーとともに再現する試みではないかとも思えてきた。今回のヤマトの艦橋だけは、昭和である。


今回森雪/黒木メイサ/スターバックは、オリジナルな設定とは異なり、強くたくましい女性なのだが、それがまるでお約束のように、映画のなかでは、だんだん弱くなり、ふつうの女の子になってしまうのは、常套的なものとはいえ、すこし残念。同じ脚本家でも、『K20』のときは、ふつうの金持ちのお嬢さん(松たか子)が、最後には、強い女性に変貌を遂げたのだったが。