ストラヴィンスキー

先週土曜日には新国立劇場で、バレー公演をみたのだが、同じ土曜日には、そのあと映画館にも行ったので、とくに触れなかったのだが、ここで個人的なコメントを。


三本立て公演で、個人的には『火の鳥』が感銘深かった。よく知られている名作バレーだということではない。子供の頃の思い出とむすびついていたからだ。


私の父は、クラシック音楽のファンというか、オーディオ・マニアで、暇なときはいつもクラシックのレコードを聞いていた。狭い家だったので、その音は、家中に聞こえたのだが、父親は、まあ、モーツァルトとかベートーヴェンといった主流のクラシック音楽しか聴かない、保守的なというか、ありふれたクラシック・ファンに過ぎなかったのだが、それでも一時期、毎日のようにストラヴィンスキーを聞いてことがある。子供心にも、その音楽が、いつも聞いているクラシック音楽とは違うことくらいはわかったので、興味深く聞いていた、というか聞きながら眠っていた。眠くなったわけではなく、眠る時間だったのだ。今と違って、昔は、たいていの家庭では、親は子供の眠る時間をきちんと守っていた。だからストラヴィンスキーのバレー曲『春の祭典』と『火の鳥』と『ペトルーシュカ』の三曲は、私にとっては子守唄のような時期があった。


今回、『火の鳥』のバレーの舞台をみながら、ストラヴィンスキーの楽曲の旋律をすべて記憶していたことを改めて確認した。聞こえる曲すべてを覚えていた。長い年月を経て、よみがえってくるメロディには、少なからず感激した。また、恥ずかしながら、『火の鳥』のバレーの舞台をみるのも、これが生まれて初めてであり、その点でも感激した。


ストラヴィンスキーのバレー曲の舞台というのは、映画『シャネル&ストラヴィンスキー
(2009)でも登場する。『春の祭典』の舞台だったが、残念ながら、映画の力点は、『春の祭典』の舞台をみて憤り口論し乱闘する観客の側に置かれていて、舞台そのものは断片的であった。7年後に改訂を試みて、最後に再演して大成功をおさめるというのが映画の流れだったのだが、再演で指揮をするストラヴィンスキーの姿から、やがてシャネルとストラヴィンスキーのそれぞれの晩年の姿へと映像はスリップして、成功した『春の祭典』の舞台はみれずじまい。


ただしそれにしても初演時に観客が騒ぎ出した舞台というのは、ああいうふうだったのだろうか。初演時に憤慨した客が暴れるたというのは、よく音楽史の本にも書いてあるが、ストラヴィンスキーの場合、バレー曲としては三作目で、どういう曲かもわかっていたはずだし、バレーの舞台としても、それなり前衛的な舞台であることもわかっていたのではないか。まあ、まちがった観客を入れたということだろうか。なにしろ、ストリップ小屋に入って、女性が全裸で客に性器を見せていると憤慨するようなもので、わかっていたら最初から来ない客が、紛れ込んで憤慨したということなのだろうか。


ひょっとしたら、何も知らない人たちを、あえてストリップ小屋に招待したのではないか。最初から驚かせ、憤慨させ話題になることを狙っていたのか――映画ではストラヴィンスキーがまるででデビューする新人作曲家のように、観客の反応がどうなるのか緊張しているという設定だったが、Offending the audienceは最初から織り込み済みのことではなかったか。まあ、よくわからないのだが。


あと映画ではココ・シャネル役のアナ・ムグラリス、前に見たのがダニエル・オトゥイユと共演していた『そしてデブノーの森へ』だが、前作に比べると、役柄とはいえ、年齢が増したぶん、その魅力も増していた。


そういえばこの映画『そしてデブノーの森へ』について、アメリカの女性がネット上の感想で、中年男が若い女性とセックスするだけの映画は、途中で見るのをやめたと憤慨していたことを思い出す。確かに最初のほうは、そういう映画にみえるのだが、最後にはホロコーストも絡んできていて、予想外に主題も謎も深く、驚いた。よい映画なのだが、どうしてそのアメリカ人女性は、最後まで見なかったのだろうか。まちがってストリップ小屋に入って憤慨した客ということか。怒りんぼやよくない。もっとも彼女は、ホロコースト嫌いの右翼だったのかもしれないが。

命の値段(タナトスの文化)

ホリプロ50周年映画『インシテミル』(中田秀夫監督)は、豪華俳優陣の共演による映画とはいえ、あるいはそれゆえにか、あまり評判はよくないようだが、しかし、予想通りの映画で(ものすごく期待値が高いわけではないかったので)、じゅうぶんに楽しめた。


不評のひとつは、もちろん複雑な原作を単純化したことから(登場人物の数からして違うらしい−−原作は読んでいないのだが)、つじつまがあわなかったり、説明不足、そしてつっこみどころが多いからからということのようだ*1


たしかに、タイトルの「インシテミルからして、映画のなかでは説明はない。原作を読めということなのか(まあ観客が自由に考えろということなのだろうが)。あるいは、このゲームは、殺し合いのところもふくめ、すべてリアルタイムでネット上に配信され、携帯の画面でそれをみることができるというのは、まあリアルTV(アメリカのテレビで流行ったビッグ・ブラザーのような*2)のパロディなのだろうが、しかし、いくら裏ネット映像とはいえ、殺人をリアルタイムで配信するサイトが摘発されずにいるわけはない。もしそうなら、そうした殺人リアルTVを許容してしまうような、社会変化が生じていなければいけないが(たとえば映画『バトル・ロワイヤル』のときのような)、それはないようだ。


またこのゲームは、すでに何度も行われ配信されているらしいのだが、参加者が、それに気づいていないのもおかしい(最初から知っている参加者がいたり、知らない参加者がいたりという設定は、どうかと思う)。たとえば通り魔殺人者が、ゲーム参加者のなかにまぎれこむのだが、全世界にゲームの様子が配信されているようなら、逃げ込むどころか逆に露出でしかない。また参加者は、自分の秘密を暴露するのだが、まあリアルTVとはいえ、全世界の人々に知られては意味がないし、そのことは最初からわからなかったのか。などなど、こうしていくらでもつっこめる。無限のつっこみ地獄が開かれている。


しかし、それはひとまず忘れて、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった*3の設定を彷彿とさせるのだが、この映画では、クリスティー作品のように参加者が望むわけではなく招待されるのではなく、参加者は自分の意志で参加する。もちろん時給10万を超えるバイトだからということだから、全員、最初から、危険を顧みず金目当てで参加しているわけだが、殺人ゲーム化することによって、自らの命を賭けた参加となっていく。しかも、そのことを最初から知っているらしい参加者もいるのである。


つまりゲームの勝者だけではなく、犯人になっても、殺されても、特別に高額な手当てがでることがわかるので、これは、自分の体いや命で、金を稼ぐデス・ゲーム、自分の命を交換価値にするゲームだとわかるとき、震撼させられるものがある。


映画のなかで、自分の子供にアメリカでの臓器移植をしてもらうための高額な費用を得るためにゲームに参加する者がいるのだが、現在の臓器移植ブームを考えると、妥当な設定のひとつなのだろうが、しかし、そのインプリケーションは深い。


というのも死体の臓器を移植して、生きるということは、死によって生をはぐくむことだが、それはまた死の価値を高めるものだろう。そして臓器移植制度は、それによって儲けるメカニズムが確立しているわけだから、死の価値だけでなく、死の値段も高めることになる。私の人生はとるにたらないものかもしれないが、私は死ぬことで、多くの人の命を救い、多くの人の財布を太らせるということになれば、私の死は限りなく価値と価格が高い。私は私の死と引き換えに財産を得る。しかもその財産を享受する私はいないのだから、それは私の私益とは無縁の富、無償の、無私の行為となる。いま進行中の臓器移植制度に、私が反対なのは、それが、いつか自殺してまでみずからの臓器を提供しようとする人間を出現させるであろう、タナトスの制度だからだ。そして死を美化することで、儲けようとする人間が現れることで、これまでタブーだった人間の命にまで値段をつけることが可能となり、これで後期資本主義が完成をみるからだ(いやすでに完成をみている後期資本主義の反復的ダメ押し行為かもしれないが)。


この映画でも、ゲームに勝って賞金を手に入れることはむつかしいし、また犯人になって特別手当をもらっても、その金を自分も、また他人も使えないかもしれない(殺人ゲームが、全世界に配信されているために)らしいから、自分を誰かに殺させて死亡手当てをもらい、それを遺族に残そうとする人間が出てくる。そして自らの命と引き換えに巨額の金を遺族に残そうとすることで満足する人間と、その善意を利用して金儲けをしようとするシステム、まさにこれこそ現代日本の、あるいは世界の後期資本主義の縮図ではないのである−−臓器移植は、その最たるものだ。


映画そのものは、生への執着がもっとも強い者が生き延びるというテーゼを、変化してみせる。一見、生への執着が強そうな者たちも、自らの命を捨てるのを覚悟している点で、死への執着が強い。タナトスへの傾斜から身を引き離す臆病者、タナトスを利用するシステムに回収されず逃げる者が、生への執着が強いものだと再定義されるのだ。みっともなくとも醜くとも、逃げて、ただひたすらに生き延びること。多くの文学あるいは軽文学で、ありきたりのテーマでもあるこれが、いま死の領域までも支配しようとしている資本主義に抵抗する文学の力となるかもしれない(実際、タナトスと殉教を主題とする文学が、これから増える可能性があるのだから)。


そう考えると、この映画のもつ、批判性は、深いものかもしれない。映画の中で、殺人が起こると、犯人探しをする探偵役となる人物の推理が正しいかどうかを、参加者の多数決によって決めるという設定があるが、実際には、探偵役の推理は、証拠も何もないずさんなストーリーで、それに対して参加者が多数決で正しいさを決めることにもなっている。まさにこれは現在の裁判員制度への批判以外のなにものでもないだろう。この映画のもつ、社会批判性は、どうもかなり強烈である。

*1:もうひとつの大きな理由は、閉鎖された空間での少人数のドラマは、演劇を連想させ、映画と演劇とは相性が悪いという、間違った通念にもとづくもの。映画は演劇的・舞台的になれば、そのぶん強度が増すし、映画こそ、演劇のよさを最大限発揮できるものであることは、もっと認識されねばならない。

*2:『ビッグ・ブラザー (Big Brother)』 は、Wikipediaの定義によると、「1999年にオランダで放送されたテレビ番組。 完全に外部から隔離され 全ての場所にカメラとマイクが仕掛けられた家で、十数人の男女を3ヶ月生活させ、彼らの生活を 喧嘩・セックス・互いの脱落させ合いに至るまでの全てを放送するリアリティ番組である。この番組のフォーマットは世界各地に販売されている」とある。

*3:最初のタイトルは『10人の小さなニガー』だったり『10人の小さなインジャン』、まあ、どちらもいまではとんでもない差別用語だったので変更を余儀なくされた。また変更後のタイトルのほうが良いように思うのだが。

孤児なる証明


映画冬の小鳥(ウニー・ルコント監督2009)は、いろいろ考えさせられる映画で、ともかく考えさせられたことを断章として記しておきたい。


この映画をみて、昨年みた映画エスターと『ホースマンを思い出した。どちらも孤児・養子が重要な位置をしめる。『ホースマン』にいたっては、この映画と同じ、アジアからの養子だ(チャン・ツィーが演じている)。また『エスター』も『ホースマン』もアメリカで、「全く新しい生活」(ちなみにこれは『冬の小鳥』のフランス語原題でもある)に入る養子が、その家庭を破壊してゆく。二つの映画は、外国から来た養子を不気味なものとして提示しすぎている。『エスター』の場合、アメリカの養子縁組協会から批判が出たくらいで、いくらサイコスリラーとはいえ、養子(海外からの養子)を悪く描きすぎている。


『冬の小鳥』は、児童養護施設での生活と、養子縁組の成立までを、ある意味、淡々と描いていて、その点で、美化もしていないが、悪くも描いていないため、等身大のリアルな孤児・養子物語が。監督自身の経験とも響きあいながら提示される佳編といえるかもしれない。しかし、淡々と描かれるだけに、救いがないつらい現実というのが見えてくる。というかその救いのなさに、身の凍る思いがする。まさに映画のなかの冬景色のいてつく感じは、観ている者に確実に浸透する。


主人公の女の子は、親が死んだわけでもない。父親が再婚したため、父親に捨てられたのである。もう父親とは二度と会えないようだし、父親との幸福な思いでも、消えようとしている。孤児なら、施設で仲間たちと暮らし、成人したら巣立っていけばいいのだが、彼女たちが施設を離れるのは、海外養子縁組に決まったときに限られる。親がいなくても、りっぱに育ち、韓国社会で自立するという道は閉ざされている。父親に見捨てられた彼女は、さらに母国とも縁を切らなければいけないのである。


映画の最後、フランスの空港に到着した主人公の女の子が、フランス人の養父母と出迎えゲートで出会うところで終わるのだが、そこに希望にみちた新生活はあらわれていない。フランス人養父母とは、この映画で描かれる他の事例とは異なり、書類だけ養子縁組が決まったようで、主人公の女の子は養父母の顔すら知らないのである。だから彼女は韓国からフランスまで一人でやってくる。韓国出発時には付き添いのフランス人らしき人物がいたのだが、フランスの空港に到着してからは、付き添いがいなくなり(演出だろうが)、小さな女の子がひとり歩んでゆくだけである。彼女は意志強固でしっかりしているから、フランスでの新たな生活に溶け込み、フランス議会の人種差別・民族蔑視にもめげず、元気に生きていくという予想もつくが、同時に、彼女が友人とともに「養子」にした、冬の小鳥のように、あえなく死んでしまうかもしれない。未来は不確定なままのである。


施設から出たらそこは外国なのである。では、養子縁組できなかったら、この映画では脚の悪い女の子が歳をとっても、養子縁組先がなく、あっても、家政婦としてただ働きさせられるという、海外養子縁組よりはるかにつらい運命しか待っていない。寮母にも、それがわかっているから、送り出すのはつらい。この過酷な運命から逃れるため、彼女は、日本風に言うと御用聞きの若い男に恋をし結婚を夢見る。つまり、もしこの男性と結ばれることになれば、施設から出てゆける。だが、この男性に出したラヴレターの返事が思わしくないことから、彼女はもうひとつの脱出方法を試みる。自殺である。だが、それも未遂に終わったため、結局、施設を出て、無給の家政婦という奴隷生活へと追いやられるのである。


この女の子(といっても施設のなかでは唯一、成人に誓い女性)を演じているのは、コ・アソン。あのグエムル(監督ポン・ジュノ2006)のなかで、怪物に連れ去られる中学生の女の子である(ポスターとかDVDのケースで提示されている、後ろから怪物が迫ってくるのに気づいていない制服姿の中学生、それが彼女である)。この映画では、怪物に連れ去られるよりも過酷な運命が彼女を待っている。


こう考えると、この映画は、たしかに救いがなく観ていてつらい映画である。冬の冷気が心の奥底までしみこんでくるような映画である。ただ、それをストレートに感じられないのは、全体が抑えた映像表現になっていること、そしてまた、過酷な運命の只中にあわれる生への執着やたくましさ、そして笑いが、これもまた抑えた様式で表現されるからだ。先ほどのコ・アソンが、施設の全員の前で、自殺をするようなまねはしないと公開懺悔というか公開での反省の弁を述べるときに、年下の子供たちから、いつもの遊び友達のお姉さんが神妙な顔で反省しているのがおかしくて、笑い声が漏れ、それにつられて彼女自身も笑ってしまうという場面があるが、この印象的な場面は、この映画では決して例外ではない。



赤い靴はいてた女の子、異人さんに連れられて行っちゃった。これは海外養子縁組を歌った歌であることは、ほぼまちがいない。この日本人の女の子は、外国人にもらわれて横浜の港から外国に行く。女の子は二度と日本の土は踏まないかもれいないが、海外の心優しい養父母のもとで育てられ、高い教育を受け、国際人として活躍するかもしれない。だから可愛そうではなく、羨ましいともいえるのである。


しかし、ここにある暗示は、望ましい運命(それは可能性としてまちがいなくあるとしても)どころか、どちらかというと不気味な悲惨な運命ではないか。異人さんにつれられていく女の子は、基本的に性的愛玩物として売られてゆくのではないか。日本の田舎において娼婦に売られてゆく女の子のイメージが、横浜から外国行きの船にのる女の子のイメージに重ね合わせられる。あるいはこの歌ができた頃には思いも及ばなかったことかもしれないが、さしずめいまなら、外国人に連れ去られる子供は、臓器移植市場に売り飛ばされる闇の子供たちにほかならない。幸せな養子縁組生活から臓器移植のために殺される――運命の幅は大きい。だが養子縁組も、性奴隷も、臓器移植も、すべて一括して人身売買という運命でくくられる。


実際『冬の小鳥』をみていて、日本には、おそらくない海外養子縁組制度について、身寄りのない子供たちを引き取る外国人はりっぱなものだと思いつつも、これは体のいい人身売買ではないかという思いは拭い去れなかった。いや、ひょっとしたら、人間以下かもしれないのだ。欧米人がアジア人の子供を引き取る。なぜアジア人なのか(アフリカ人も多いだろうが)。白人が背負うべき重荷という意識からか。それはあるだろうが、同時に、アジア・アフリカ人が欧米の白人とは違う人種である以上、ペットになれるからだ。


ペットの定義、それは人間に近いのだが人間ではない。犬や猫は、私たち家族の一員だが、しかし、ほんとうの人間の家族ではない。欧米の白人にとって、アジア・アフリカ人は、どちらかという白人よりも動物に近い存在なのだ。だから差別もするが、ペットしてもかわいがる。白人の優位はゆるぎないから、欧米的基準からは醜いアジア・アフリカ人も、ペットしてみればかわいい(ブルドックは醜い犬の極致だが、同時に、とても可愛くはないだろうか)。結局、アジア人の子供を養子縁組する欧米人は、ペット(それも犬や猫や猿よりも頭のいいペット、イエローモンキー)と暮らしたいのだ。施設の少女たちが、親鳥から捨てられた小鳥を、自分たちの分身であるかのように、飼育するとき、少女たちのやさしい気持ちに心打たれるあなたも、親に捨てられた人間の子供たちを飼育しようとする欧米人に心打たれるだろうか。あなたがそこに感じ取るのは、醜い顔のアジア人を、その醜さゆえにペットとして可愛がる欧米人の不気味さではないか。


なにかこの映画『冬の小鳥』について、意地悪な見方、あるいは邪悪な見方をしているのではないかと、思われるのかもしれないが、それはちがう。むしろ、この映画そのものが、こうした思いを抱かずにはいられない、静かな訴えかけをしているのだ。


たとえば仲良くしていた年長の女の子がアメリカ人夫婦の養子となって施設を去ってしまうため、主人公の少女が、裏切られた思いと、孤独感に耐えきれず、クリスマスのプレゼントの人形を壊してしまうエピソードがある。キリスト教組織を通して全世界から送られてくるクリスマス・プレゼントは、生半可な安物ではなく、この施設には不釣合いなほど立派なものなのだが、その豪華な人形の首や手足をもいでしまう女の子は、ほかの女の子たちの人形も、同様に、ばらばらにしてしまう。しかし、彼女は、たんに虫の居所が悪くてかんしゃくを起こしているのではない。彼女が壊している人形、それはまさに愛玩物としてもらわれてゆく彼女たちの表象そのものであり、それを壊している彼女は、外国人の人形としての自分を呪い、そうした自分を消そうとしているのだ。それが映画からわかる。自分たちが人形にすぎないことを彼女たちは理解している。なぜ親に見捨てられたか、いかなる誤解から親が自分を見捨てたのか理解している彼女はまた、自分が、孤児たちが、欧米人の人形にすぎないことも理解しているのである。


ペット(冬の小鳥)? 人形?――いやそれだけではない。この児童養護施設には、女の子しかいない。男の子の孤児は、いないのである。なぜ? 私には、制度的なことはなにもわからないが、たとえ、韓国では、制度上、男女に分けておくということであるとしても、女の子だけの児童養護施設を舞台にしたことの意味は大きい。辺鄙な田舎にあるい養護施設は、逃げ出しても、周囲に原野が広がるだけで、行き場所がない。女の子は、女の子たちは、そこに閉じ込められて、そこで時々、品評会みたいに、養父母になる夫婦に品定めされ、連れ出されてゆく――そんな女の子だけの施設。


これはもう映画ミネハハとかエコール(ともに原作はヴェデキントの短編「ミネハハ」)の世界ではないだろうか。ジョン・アーヴィン監督の『ミネハハ』はイタリア風B級ホラー・サスペンス映画であり、いっぽう『エコール』は、謎が多くとも残酷なシーンはなくオープンエンディングなのだが、いつ残酷で正視に堪えないグロテスクな映像・場面展開になるのか、観客は、最後まで緊張しつづけてみる点、『ミネハナ』よりも怖い映画である。いずれも少女たちが性奴隷として飼育されるという明示的・暗示的設定がある。映画は、児童ポルノの一歩手前というか、ふりむけば児童ポルノの暗部がブラックホールのごとく待ち構えているのだ。


『冬の小鳥』は、孤児たちの、怒っても抗えない過酷な運命を、声高にその非を鳴らすのではなく冷静に哀切に描く映画なのだが、見ている過程で、そう、いくつものホラー映画を思い出すことになるのだ。この状況――人里はなれた僻地にたたずむ少女だけの児童養護施設、そしてそこから海外に養子縁組でもらわれてゆく少女たち――は、まさに恐怖の宿る、あるいは恐怖がそこから生まれる始まりの場所ともいうべき性格をもっている。映画は、そうしたホラー映画の原基ともいえるリアルな原像を提示する。その原像とは、ホラー映画という想像界あるいは象徴界のいずれにも回収されない、リアルな現実界そのものなのだが、この現実界は、ホラー映画が華麗な装飾にみえてしまうほど、鮮やかさも華麗さもない寒々としたものだった。逆に、その冬の光景を糊塗するために、数々のホラーが、生まれてきたし、あるいはまこれからも生まれるのである。


ちなみに『冬の小鳥』のなかで、主人公の女の子がなぜ父親から嫌われたかを話すシーンがある。それはその少女の父親が再婚し、再婚相手の赤ん坊を、その女の子が傷つけようとしている誤解された結果だった。親が再婚して、再婚相手との間に子供ができるとき、前夫・前妻の子供は、家庭内で孤児化することがある。私の母親も、自分の母親が死んだために、家庭では孤児だった。そのため家庭にいて、育ての親たちがいても孤児になるケースは多い。ここから鬼婆あるいは魔女のような継母が、幼児を虐待するというホラーが生まれるいっぽうで、孤児化した前夫・前妻の子供が、新しい子供に危害を加えるのではないかというホラーが生まれる。『冬の小鳥』のなかで少女の告白を聞いたとき、私は映画ジョシュアを思い出した。ジョシュアは養子でも孤児でもないが、風変わりなというか不気味な子供で、実の両親からも疎まれているが、その両親に、新しく子供が生まれる。すると両親はジョシュアが、新しい赤ん坊に危害を加えるのではないかと不安に激しくさいなまれる――激しいとは、発狂するまでになるということだ(実際、観客も、不安で発狂しそうになる)。ジョシュアには、『ホースマン』の中国人養子(チャン・ツィーが演じていた)あるいは『エスター』のエスターのように、養子縁組された家庭を破壊してゆく外国人養子の面影がある――というか、そうしたホラーを強く連想させる。ジョシュアは、彼らの一族なのである。


となると『冬の小鳥』の女の子も、養子縁組される前に、実の父親の家庭内ですでに養子化していたこと、それも恐怖の養子のイメージで認識されていた――誤解されていた――ことがわかる。養子とか孤児とは、恐怖の温床なのである。となると、ここから映画のリアルとホラーの関係が、逆からもみえてくる。


先に、養子縁組制度には、ホラーを生み出す文化的原基という面があると述べた。逆から言うと、養子とか孤児をめぐるホラー(ちなみにフロイトのいうファミリー・ロマンスとは、子供が、ある時期、自分のことを、もらい子ではなかいと思う、養子・孤児幻想のことだった)も、そのおどろおどろしい細部なり装飾を取り払い、また文化的伝統的な養子・孤児表象の沈殿物を洗い出し洗い流し、ただ、現実の養子縁組制度を、白日の下にさらるとき、そこにあるのは児童たちが、児童養護施設で、慎ましやかに暮らしながら、過酷な運命に耐えるという、寒々とした冬の景色でしかない。そこをしっかりみてくれ。そのリアルから目をそらさないでくれというメッセージを映画は、発信しているようにみえる。現実はホラーほど面白くない。その面白くない現実を、リアルを、みてくれと映画は語りかける。

聖地

関西における講演のあとの懇親会で、ある先生から、住まいはどちらかと聞かれた。埼玉県和光市と答えたが、よほど関東のことに詳しくない人でないかぎり、和光市といっても、どこにあるのかわからないはずだから、あれこれ説明しなければと構えたところ、ああ、和光市、知っていますという答えが返ってきてすこし驚いた。


もともと関東にいた人か、関東か埼玉県に親戚がいるとか、たまたま知人がいるとか、いろいろ理由は考えられるのだが、私がとっさに想像した理由はどれもちがっていた。私に質問した先生は、お嬢さんが東大法学部に在籍中(あるいは卒業したか)とのことだった。それがどうしたのかという私の怪訝な顔を前にして、すかさず、その先生は、司法研修所があるでしょうと、問いかけてきた。


ええ、和光市には司法研修所がありますと私は答えて、納得した。たしかに司法試験を合格したら、司法研修所での研修が待っている。和光市は、その司法研究所がある、ある意味、司法関係者にとって聖地なのだとわかった。そういう意味で、埼玉県の人口5万くらいのこの市も、司法関係者にとっては重要な市(聖地)なのであった。

カレーライス

14日木曜日放送の『秘密のケンミンショー』(日本テレビ)で、カレーライスの境界がどこにあるかを決めていた。関西から以西は、カレーライスは牛肉カレーライスが定番で、東日本では豚肉カレーが定番のようだが、どこがその境界線かを調査したのである。


三重県まで牛肉カレーがメジャーだったのが、名古屋市になると豚肉カレーがメジャーになる。私自身、名古屋市で生まれ育ったので、カレーライスといえば、子供の頃から豚肉カレー。いまでも、自分で作るときは、豚肉カレーがふうつ(まあ時にはチキンカレーもつくることがある――チキンカレーの最後にココナッツミルクを入れると、あっというまにタイ風カレーに変身する。なお牛肉と言うと、自分で作るときは、ハヤシライス、すき焼き、肉じゃがに使い、カレーには使わない。)。


となると三重県と愛知県の県境がカレーライスの境界になるとして、番組が目をつけたのが、両県の境にある川。木曽川をはさんで愛知県側にある三重県桑名郡木曽岬町(「きそざきちょう」と読む)では、豚カレーライスが優勢なので、ならば木曽側を挟んで三重県側の長島町はどうかと調査をしたら、ここは実に見事に、牛肉カレーと豚肉カレーとが半々にわかれ、長島町が東西カレーライスの境界として認定された。長島町で東西文化が出会っていることが確認された。


ちなみに私の先祖の墓というか私の両親の墓も、その長島町の隣の木曽岬町にある。同じ三重県でも、長島町は桑名市内にあり、木曽岬町桑名郡とただの郡扱いと、差がつけられているし、木曽崎のひとたちは、買い物に行くにも名古屋市に出かけることが多く(実際、近鉄弥富駅からだと、準急(たぶん急行は止まらない)で15分か、16分で名古屋駅なので、近いといえば近い。高速道路もよく利用されている)、豚肉カレーのみならず、他の面でも、愛知文化圏、いや名古屋文化圏である。


だったら、木曽岬町は、愛知県にしたらどうだろうか。実際、木曽岬のひとたちも愛知県や名古屋市のほうに愛着が深いだろうし、カレーライスも豚カレーだし、名古屋出身の私が、先祖の墓が三重県にあるという、まぎらわしいことをいわなくてもすむので。

世界の果てで

世界の果てまでイッテQ! 秋の珍獣祭り2010』3時間スペシャルでは、前宣伝として、「お祭り男・宮川がスペインのトマト祭り&ベルギーの竹馬祭りに参戦」とあり、「"世界一盛り上がるのは何祭り?"では、宮川がスペインのトマト祭りで1時間ひたすらトマトを投げまくるほか、竹馬に乗って……」と紹介してあった。


「宮川がトマト祭りで1時間ひたすらトマトを投げまくる」!――まあ、そういうことになるだろうと番組を見る前から期待した人は多いと思うが、たまたま番組をみていた私は愕然とした。あいた口がふさがらないどころか、なんだか不快になってきた。


と書くと、つぶれて液体のしずくのかたまりとなったトマトの臭いとか、大量の人々がもみあう体臭とか、トマトの赤い果肉がもたらす壮絶なカオス的色彩の乱舞とか、そうしたものをリアルに想像したり目撃するわけであり、食べ物の無駄使いという道徳的な違和感も手伝って、私が、不快になったと思われるかもしれないが、そういうことでは、全くない。


「宮川がトマト祭りで1時間ひたすらトマトを投げまくる」!――冗談じゃない。トマトなど一個も来ない。宮川たちが待っている市役所通りというところには、大量のトマトを積んだトラックは、結局最後まで、1台も来ないのだ。宮川も市役所通りを埋め尽くした群集も、1時間かそこら、ただ立ち尽。


群集で身動きがとれず、その場から一歩も移動できない宮川一行に責任はないし。番組にも責任はない。ただ「宮川がトマト祭りで1時間ひたすらトマトを投げまくる」と嘘の宣伝をした関係者は、恥じ入って、自分の舌を噛み切って死ねとはいってやりたいだけだ*1


ではどこに不快感をいだいといえば、祭りの主催者のバカさ加減というか不手際そのものに対してである。別の通りには、トラックが大量のトマトを運び込んでいて、トマト祭りが盛り上がっている。しかし追加のトラックは、同じ場所で、止まって、そこにトマトを投棄するだけで、宮川を含む多くの人たちが待っている市役所通りは、行こうともしない。最後にやってきて盛り上がるのかと思ったら、最後の一台も別の通りで、何事もなかったかのように、同じ地点で大量のトマトを投棄して、それで終わり。その場所は、つぶれたトマトの果汁で洪水のようになっているのに、宮川たちが待っている市役所通りには、トマトの影もない。


結局、まんべんなくいろいろなとこにトマトを運ぶべきなのにできなかった主催者側の不手際だけが目立ったことになったのだが、まあトマト祭りのトマトだから、そんなに目くじらをたてることもないとしても、これが緊急の救援物資だったらどうなるのだろう。必要とされている人のところには、届くことなく、同じ一箇所だけに、大量に送り込まれて、あまって捨てるしかなくなるというような、不手際では済まされない、失策いや、殺人行為が、いまなお世界で平然と行われているにちがいなからだ。


もちろん、今回のトマト祭りの主催者にしても、いいぶんはあろう。たぶん、ここまでのひどい不手際は日本の祭りではありえず、スペイン人の無策と無神経のゆえだろうとは思うのだが(怒りにかられて民族差別発言をしてしまったが)、困難とはいえ、仕分けと仕切りをきちんとしないと、不正がまかりとおり、助かる人も助からないまま、多くの人が命を落としつづけるだろう。


今回のトマト祭りの失敗をみながら、私が不快になったのは、まさにこうしたリアルな世界のありさまを、それが思い起こさせてくれたからにほかならない。

*1:なおこちらも嘘のことを書いたと批判されかねないために、1時間のあいだ宮川が一個もトマトを手にしなかったわけではないことを書いておく。トマトがまったく来ないので、かわいそうに思った周辺住民が、通りの両側の家のヴェランダや屋上から、家の冷蔵庫にあったトマトをいくつか投げ入れることがあった。広い通を埋め尽くした大群集なので、そんなわずかなトマトが救いになるわけでもないのだが、たまたまそのうちのひとつが、宮川のすぐ前に立っていたスペイン人の頭か肩にあたってつぶれた。宮川がそれを手にとって、トマトや、トマトやと叫んで、前のほうに投げ返した。それが番組で宮川が握った、唯一のトマト(しかも最初からつぶれている)であった。

ニガクリタケ

テレビのワイドショーで、10月2日東京都墨田区錦糸公園で開かれた「第35回すみだまつり」で毒キノコが交じった疑いのあるパック詰めが販売されたことを紹介していた。同区は3日、販売されたキノコは毒性の強い「ニガクリタケ」だったと発表したが、販売された4パックのうち、2パックの購入者は不明と発表したが、いまもなお1パックの購入者、未定とのことだった*1


クリタケとニガクリタケとをテレビで紹介していたが、毒キノコについては何も知らない私も、デェジャヴュあり。そう、映画『クヒオ大佐』(吉田大八監督、2009)だ。


映画の最初のほうで、クリタケに似ているが毒キノコで、食べると死ぬことがあると、科学館の学芸員の女性(満島ひかり)が子供たちに説明するところがあった。このニガクリタケは、映画の終わりのほうにも重要な役割をになって登場する。


というか、それよりもなにも、クリタケにそっくりなニガクリタケ、食べると死ぬかもしれないニガクリタケは、結婚詐欺師で、偽者のクヒオ大佐堺雅人)そのものでもあって、実は重要なアレゴリーだったのだと今気づいた。

*1:現時点10月10日でも、残り1パックは見つかっていないが、捨てられたかして、処分されたのだろう。『クヒオ大佐』のなかでも、満島が言っていたが、食べると、名前の通り苦くて、判別はできるそうだ。