禁じられた恋の島 『イル・ポスティーノ』ゲイ映画解説3


マイケル・ラドフォードの映画『イル・ポスティーノ』(Il Postino, 1994タイトルはイタリア語で郵便配達夫の意味)は、その生涯の一時期イタリアのナポリの近くの島で亡命生活をおくったチリの社会主義者ノーベル賞詩人パブロ・ネルーダと、世界中からネルーダに送られてくる手紙を届けるために臨時に郵便配達夫として雇われ、やがて交流を深める漁師の男マリオの物語である。
ネルーダは美しく若い妻をともなって亡命生活に入る。郵便配達夫は、「まれびと」あるいは「来訪神」ともいうべきネルーダとの交流を通して、詩の手ほどきを受け、また人生と社会に目覚める。父親との無味乾燥な二人暮らしの猟師生活で人生を終えるはずだった男は、やがて村一番の美人と評判の女性と結婚でき、人生に新しい展望も開けてくる。
■男の結婚式は、中盤から後半にかけてのクライマックスとなり、そこにはネルーダ夫妻も招かれ、村をあげての陽気な大宴会となる(あれほど寡黙だった父親が雄弁なスピーチをはじめる驚きもある)。そして村を去ったネルーダが妻とともにふたたびやってくる。そのマリオと妻が経営することになり、結婚式場ともなったそのレストラン(というよりも食堂、居酒屋)に。店の壁には、結婚式の写真が額に入れて飾ってある。写真には新郎新婦のほかにネルーダも映っている。「あら、わたしが写っていない」とネルーダの若い妻が語る。結婚式には彼女も出席していたのに。この短い一言、誰もそれに応答しない何気ない一言が、映画のテーマを暗示する。もののみごとに。映画はネルーダとその郵便配達夫との恋の物語だった。
■この映画の独自性は、通常の結婚物語後に訪れる。逮捕命令が撤回されてネルーダはチリへ帰るが、ネルーダの残した録音機にマリオが島の様々な音を集めていくシーンを、映画一番の見せ場とする解説もある。それはまちがいないだろうが、ポイントは、ネルーダ去ったあと、ネルーダから教わった自然への愛に、郷土愛に目覚めて、マリオは自然の音を録音しているのではない。それとだけしか解釈しないなら、映画を見間違っている。いうまでもなく、それはネルーダに届けるラブレターの代わりなのだ。あるいはマリオの死は、共産党の集会で、ネルーダに捧げる詩を朗読しようとしたときのことではなかったのか。ネルーダへのラブレターがマリオの遺言だったのである(ネルーダの妻とは仲が悪いわけではないが、なんとなくライヴァル関係になる)。
■最後にマリオは、郷土愛に目覚めただけではない、人生に目覚め、社会の不正に目覚め、共産党員になっている。郵便局長が共産党員だったからといって共産党員になったわけではない。ネルーダがそうであったから彼も共産党員になったのだ。
■ここにあるのはルネ・ジラールの三角形の欲望である。村一番の美女へ漠然とした思いは、他の男たちと同様マリオにもあったのだろう。だがネルーダの若くて美しい妻に接した瞬間、彼の情熱に火がついた。ネルーダの妻を奪うのではなく、彼女に等しい女性と結婚する欲望が生まれる。それは女性を所有したい欲望だが、同時に、ネルーダ的人物になろうとした同一化の欲望でもある。以後、彼の行動は、所有の欲望に基づいて行動しているかにみえて、同一化の欲望を背後に隠し持っている。詩を学び詩を書こうとするとき、彼の欲望は詩を所有すると同時に、ネルーダのような詩人たらんとする同一化の欲望に突き動かされている。彼は島の自然音を録音する。まさに自然を所有せんとするわけだが、使っているのがネルーダの使っていた録音機であることからも、ネルーダとの一体化が欲望されている。しかもそれを録音した音をネルーダに送る、まさに、それは同一化の欲望が愛へと発展しているのだ。
ジラールは、欲望とは他者の欲望であると語り、他者との一体化によって、他者が所有しているものを自分も所有しようとする、いいかえれば私たちの欲望は他者の欲望によって媒介されているのだと考えた。このとき他者との同一化は、本能的に、自然に起こるとジラールは考えた――猿から進化した人間にとって、猿真似はお手の物とでもいわんばかりに。しかし本能的に同一化が起こると語ることで、同一化を本能的あるいはメカニカルなものにして、そこに好ましさ、望ましさ、愛の要素が入り込まないようにした。つまり同性愛あるいは同性愛的要素をシャットアウトしたのだ。
ジラール信者ではない私たちは、ジラールホモフォビアを脱して、同一化の欲望は本能ではなく、そこに同性愛あるいは同性愛的要素がからむことを、正面から見据えてもいい。相手がもっているものを、わたしたちはただ闇雲に欲しがることはない。もし相手(この場合は、私を男性で、相手も同性の男性としよう)が、私には嫌悪すべき人物なら、いくらその人物が優れた奥さんをもっていたとしても、その奥さんの品性を疑いたくなるし、ましてや結婚したいとも思わないだろうし、もしその人物が文学研究者だったら、私は、二度と文学作品を読もうとは思わないだろう。つまり相手の望ましさが、一体化の引き金となり、所有の欲望を発動させる。所有の欲望には、望ましい相手と一体化したいという同性愛的欲望が根底にあるのだ。
■だから作中でマリオは、ネルーダという世界的著名人に、ただやみくもに、本能的にあこがれ、自分もそうなろうと思ったわけでもなければ、セレブになって女といちゃつきたいという打算があったわけでもない。マリオは、ネルーダという好ましい望ましい人物との接触をとおして、結婚することの正しさ、望ましさを、社会主義者になることの正しさ、望ましさを学び、それを欲望したのであって、そうした所有の欲望の根底にはネルーダと一体化したい同一化あるいは同性愛的欲望があったのである。そうでなければ、もし同一化の欲望がジラールが考えたように、本能的で価値判断を抜きにして行われるのだったら、マリオは当時流行のファシストになっていただろう。戦後は保守派のナショナリストになって、反対派の家を焼いていただろう。
共産党の集会に対する官憲の弾圧にあって命を落としたマリオにとって、ネルーダはもはやネルーダ自身の偉大さを超えて、神にも等しい存在へと肥大化していったのかもしれない。その意味で彼の詩は殉教者のそれに等しい。と同時に、あるいは同じことだが、ネルーダに捧げる詩を朗読することで、マリオにとって同一化の欲望(詩人になること)と所有の欲望(捧げものが、ネルーダに所有され、ネルーダを所有すること)のふたつが同時に実現したことになる。それも永遠に。永遠にふたりは結ばれたのである。
■映画のなかで、久しぶりに村に帰ってきたネルーダは、マリオとの思い出の場所を再訪する。そこはどこだったのか。ふたりの交流にとっては、ドラマの展開にとっては、ほとんど意味のなかった海辺である。この映画は、詩人と郵便配達夫の交流を、結婚式の場となった食堂でもなければ、ネルーダの岡の上の別荘でもなければ、海辺(言葉も、ドラマなかった)の場に集約させて終えようとしている。そう、それは水の物語、海辺の物語。同性愛物語の古典的な場ある。ふたりの交流を同性愛として、映画は語ろうとしたのである*1(ラドフォードのゲイ映画としては『Bモンキー』と『ヴェニスの商人』がある。)

*1:この項のタイトル「禁じられた恋の島」は、映画(1962年)にもなったイタリアの小説。とりわけなつかしいのは、これが私の子供の頃、河出書房の小ぶりの緑の箱にはいった緑の表紙の世界文学全集の第Ⅱ期の別巻になっていたことだ。おかしいでしょう。あきらかに映画化されたから文学全集に入れたようなもので、べつにひどい小説ではないにしても、文学全集に入る正典ではない。でもなつかしい。昭和の香りじゃい。いまだったら全部欲しいあの全集、結局、買わなかったし、この作品も読まなかった。現物は公共の図書館などでいまでもある。