最初の環境破壊(円通寺)


この日、京都は、午後、大雨と雷にたたられた。結局、今年の夏は、日本中、スコールが降っていることが確認されたのだ。やれやれとしかいいようがない。


スコールがあがったあと(つまり大雨が降っても、すぐに止んで青空が出るのだから、まさにスコール)、A先生に紹介された円通寺に、B氏の運転で、C氏と向かうことになった。最初「円通寺」がどこだったのかわからなかったのだが、私のもっているガイドブックの略地図にだいたいの場所が記してあったので、京都在住のB氏は場所がわかったようだ。


着いてみると一瞬、駐車場がなくて迷ったが、それもすぐにわかり、周囲の静謐な空気を肌で感じながら門をくぐり、玄関で靴を脱いで、受付にいる住職と思われる方に、拝観料500円を払う。そしていよいよ枯山水の庭園を望む部屋へ。


京都の観光案内のサイトから引用する

円通寺の庭は、なんと言っても比叡山の借景が見事です。借景とは「景色を借りる」というように庭園の背景に在る景色自体を庭園の一部として利用するもので、この比叡山の借景を得るために後水尾天皇は各所をまわってようやくこの地を探し当てたということです。修学院離宮といい、ここ円通寺といい、後水尾天皇のセンスの良さには、脱帽です。
臨済宗妙心寺派 大悲山 圓通寺

その庭園に面した横に長い一室には、10名ほどの観光客がいた。予想外に人が多いが、しかし、たとえば、終始、観光客や修学旅行生やガイドの声で雑然としている龍安寺の石庭とは異なる。ここを訪れる観光客は、その庭園の静かな雰囲気に圧倒されて、ペアできてもグループできても、言葉を極力交わさずに、その庭園をじっとみつめている。庭園をみつめながら、またそれが自分を見つめることにもなる、決して威圧的ではない、すがすがしい静謐さがあたりにみなぎっているとでもいおうか。


縁側に腰掛けているじっと見ている人、寝っころがって風景を見ている人、さまざまである。直前のスコールが嘘のように晴れ上がった日曜日の午後なので、私たちのような観光客も多い(多いといっても10名程度)のだが、ふだんは閑散としているのかもしれない。その境内でこの庭園一人じっとみつめていたら、さぞかし心も洗われるのではないかと思う。


だが、そう思ったのは、この場所が、ひとりしずかに景色をみつめる特別な場所であったというA先生の言葉が頭に残っていたからだが、それを忘れると、なんとこの部屋、うるさ〜い。音、大きすぎる。


実はこの部屋にはスピーカーがあって、そこから声が聞こえてくる。この寺の由来を説明すると同時に、この庭の景色が環境破壊で損なわれることを憂い、環境保全を訴える、おそらく住職のどすのきいた声がスピーカーから聞こえてくる。録音されているその声は、まさにエンドレスに流しているのだ。周囲の静謐な空気を損なわぬ声と語り口ではまったくなくて、まったくうるさすぎるうっとしくて、雑音以外の何物でもない。


この寺がある京都の岩倉周辺というのは開発が進んでいるらしく、環境破壊に反対する声も多いとのこと。私は環境破壊に反対することに異存はない、積極的に支援していきたい。だからスピーカーからエンドレスに流れる声が語る内容に反対ではない。ただそれがうるさいのだ。うるさ〜い。


すでに引用したように「庭園の背景に在る景色自体を庭園の一部として利用する」借景で有名なのだが、だとすれば敷地内だけで庭園を完結させるのではなく、遠景にみえる比叡山をも庭園の景色の一部にするような、とりこみの美学を特色とするともいえよう。それは通常は見てみないふりをする境内の外の景色を、庭園の構成要素とする包含性あるいは構成要素の拡大ともいえよう。繰り返すが、外の景色が綺麗なところはいくらでもある。ここではその外の景色を内部に、あるいはみずからの外ではなく一部に積極的にとりこんでいるところがすばらしいのである。


そのような精神で立てられた円通寺は、音もまた風景の一部であることを知っているはずである。音という聴覚情報は、風景なり景色という視覚情報の外部として通常は無視される、あるいは風景の一部とみなされないことが多い。しかし「サウンドスケープ」という言葉があるように、音、聴覚情報もまた、風景の重要な構成要素なのだ。円通寺の建造者ならこのことを理解するだろう。この寺には音というよりも、無音もしくは自然音(木の葉ざわめき、小川のせせらぎ、鳥たちの小さなさえずり声など)がふさわしい。問題は住職である。住職だけは、そのだみ声を吹き込んだテープをエンドレスに流すことで、みずからの主張を裏切っているのだ。スピーカーからの音声が、この円通寺サウンドスケープを、なんともうっとうしいものにしているとすば、環境破壊を批判する声をエンドレスに流し続ける住職が、この円通寺の環境(サウンドスケープ)をみずからの手で破壊していることになる。円通寺の借景は、すでに最初から、内側から破壊されていた。